パンとサーカス

 昨日、内閣改造を受けた支持率の上昇について書いた。ドタバタ劇場を目の当たりにして、一旦現政権に嫌気をさした民衆がまたふらふらと舞い戻ったということである。モリ・カケ・日報、どの問題についても安倍さんの隠蔽姿勢は相変わらずである。私がいくら政権に対して嫌悪感を持続させたとしても、多くが許してしまっているのである。これは如何ともしがたい現実だ。
 古代ローマでの統治方針として、ご案内のように『パンとサーカス』であったことが喝破されている。パンは食糧、サーカス(見世物)は娯楽である。この二つを為政者が提供すれば、一般国民は為政者に素直に従うということだ。翻って現代を顧みると、若い世代とりわけ学生が安倍政権を支持するのは、就職率がアップしている(飯のタネの確保)ことを評価するからだという。一方、巷にはスマホが満ち溢れ、ありとあらゆる娯楽がここから発信され社会問題となるほど民衆はその虜となっている。これは現代版の『パンとサーカス』政策と言えよう。
 先行きの不安はあるものの、取り敢えず今は最低限飢えることはない。リアル社会が如何に厳しくても、取り敢えずスマホに逃避すれば精神の安定性は保たれる。こうした現実を前提とすれば世の中うまく行っているのだから、敢えて権力に逆らって波風を立てることはない。政権が国民のことを考えない、衆愚政治だといくら呟いてみても、現状の平穏ぶりには勝てない。先行きの不安など得体の知れないもので、それと戦うことなどは、明らかに徒労である。
 日頃学生と接していて感じるのは、その刹那性である。身の回り1mの範囲が無事であれば、それ以上は求めないという態度である。憲法改正によって、自らが戦場に駆り出される危険性を指摘しても、これは、彼らには遠い遥か彼方のまったく臨場感のない世界の話で、端から議論に乗って来ることはない。
 考えてみたら、これが実情である。こうした現実をわれわれは率直に受け入れなければならないのであろう。将来にどのような地獄が待ち構えていようとも、今日が平穏で、明日あたりも大丈夫であれば、それが衆愚政治と言われようが何であろうが、国民=民衆の選択ということであればそこに収まざるをえない。ただドタバタ劇が始まると政権批判に傾き、問題が一向に解決しないのに支持率を回復させる。ここに人間としての品性が問われていることは間違いない。安倍政権を支持するかしないかは、右とか左の問題などではない。一に品性の問題なのだ。