江崎さん、別にいいじゃないか。核心はモリ・カケ・日報問題から眼をそらさないこと

 江崎鉄磨沖縄・北方担当大臣がマスコミの餌食になっている。「失言が怖いので答弁書を朗読する」「そもそも大臣就任は重荷だった」「要請を一旦断ったが、二階さんに説得されて翻意した」。これらが失言なんだという。要は、最初からこんなにやる気のない人物をなぜに大臣にしたのかということなのであろう。
 政治家として語るに落ちるということではあるかもしれない。だがこれが江崎さんの本音であるとするならば、私は人間らしくていいんじゃなと思ってしまう。少なくとも稲田さんや萩生田さん、あるいはモリ・カケ・日報問題で登場した財務省文科省防衛省内閣府などのお役人たちに辟易として来た国民の眼には、ある意味新鮮と見えないこともない。
 「地位協定見直し」発言も、野心満々の政治家であれば、口が裂けても出来ない発言である。リップサービスという面は否めないとしても、沖縄の置かれているなお悲惨な立場が彼の頭の片隅にあるからこそ、ああした発言が口をついたのではないのか。政治家の資質云々ということを言われてしまえば、それまでのことであるが、政治家も政治家である前に一個の人間である。そう考えれば、江崎さんのような政治家は貴重”種”と見てもいいであろう。
 以下本題である。マスコミ・野党が恒例の新内閣の失点探しを開始する中で、江崎さんが恰好の餌食になった。彼の話題性はそんなところである。翻って、モリ・カケ・日報問題によって半年以上も国政が停滞しているわけである。そろそろ観衆(=国民)も飽きて来た。そこへ江崎さんの追究を必要以上に始めてしまうと、国民もそうそう馬鹿ではない。スキャンダルに囚われすぎて、これ以上国政が遅滞するのは勘弁して欲しいと考え出しておかしくない。今はその分水嶺にある。
 モリ・カケ・日報とりわけモリ・カケ問題は、ロッキードリクルート事件などと比べてしまうと如何にもトリビアである。だが過去の疑獄事件はカネを貰ったか貰わないかで、ある意味構造自体極めてシンプルであった。しかしながら今回のモリ・カケ問題はそうではない。安倍さんに疑惑の眼が向いたとしても、国民の多くは彼がこの件に関してはした金をポケットにしたなどと考えてはいない。むしろ森友には100万円寄付したことの是非が問われているくらいだ。
 一連の問題の本質は、前川さんがいみじくも主張されたように、日常茶飯時、行政が歪められているのではないかというその一点である。加計問題では獣医学部に関する「岩盤規制に風穴を開ける」という使命ばかりが政府答弁では喧伝されて来たが、獣医学部新設がなぜ国家戦略特区マターなのかという説明が弱い。規制が全て”悪”で、規制緩和に版来するのは抵抗勢力として一派一絡げに抵抗勢力として断罪する。これは小泉さんの郵政民営化騒動の論法に端を発する。その勝ち戦の経験がDNAとして安倍さんに受け継がれている。そうした戦略展開には賛否両論あるわけだが、少なくとも規制緩和が全てバラ色の将来を保証するものでないない。
 これ以上ここでは詳しく論じないが、教育分野の規制は意味のあるものが多い。これには多くが意味があると言っていい。少なくても民間の一般分野の規制緩和と教育分野におけるそれは同列に扱ってならない。それを岩盤規制の打破などと金科玉条とするから胡散臭さが何時までも拭い去られない。新たな話題として江崎問題が取り沙汰されるが、この問題を新たな関心として目を奪われ、モリ・カケ・日報問題から関心を逸らしては決してならないのだ。