経済政策への過剰な期待は大きな間違い

 最近の世論調査はどれをとっても、景気対策への期待が第一ということだ。リーマンショックによって失われた15年が20年に期限延長されてしまった今日、倦み疲れた国民からそうした声があがるのは当然である。だが経済政策に過剰な期待は出来ない。
 経済政策の手段としては、従来から財政政策と金融政策の2つしかない。景気が悪くなれば財政政策では、国債を発行してでも財政支出を増やす。また金融政策では、金利を下げたり資金供給を図るなどの緩和策をとる。なお今日の閉塞状況下において、とりわけ政策総動員体制を主張するのがみんなの党である。
 みんなの党には竹中平蔵という亡霊が取り付いていると言われるが、それはともかくとして同党は、日銀法の改正までをも視野に入れてまでもさらなる金融緩和を目指すという。しかしながら金融政策は加熱を鎮めるための引き締め策こそ有効であるが、景気浮揚への貢献はまず期待出来ないと考えた方がよい。
 それは流動性の罠があるからである。金融緩和を図っていくら資金供給を続きけても、ある時点からは緩和の効果が著しく殺がれてしまう。資金に対する実需がなくなってしまうということだ。また名目金利はゼロが限界であり、金利ゼロの水準で景気がさらに悪化すれば金利政策は無効となってしまう。こんなことは経済学以前の話であろう。少なくともこの20年ほぼ一貫してそうした状態が続いている。ゼロ金利政策を取り続けても資金供給を図っても、実際に景気が一向に浮揚しないのはその証左である。
 このように実需が付いてこないケースでのさらなる資金供給は過剰流動性をもたらす。詰まるところ過剰流動性の行く先は金融商品と不動産しかない。わが国の1980年代のバブル期や、リーマンショック以前のアメリカにおけるブームは、いずれも過剰流動性がもたらした徒花である。わが国の過剰流動性問題は、実は遠く80年代に遡るまでもなく最近でもその危機があった。リーマンショックの直前にかけて、REITに踊らされて一部不動産が鎌首をもたげた動きがそれである。
 金融政策は、景気浮揚策としてはことごとく無力であるということである。一方の財政政策は如何であろうか? 金融政策よりは期待が出来るが、これも基本的に成長の地合いがないところへいくら財政支出を図っても、基本的にそれは無駄金となってしまう。失われた20年はその無力について問わず語りしている。
 財政支出の効果は、追加的支出が追加的にどれくらい付加価値を生産するかということによって量られる。つまりは財政乗数は1以上でなければならないということだ。要は財政乗数が1以上であれば一定の時間を経過したのちに、国債発行額は減少に向うはずである。そうならなければ、単純に財政政策の効果はないということだ。
 実際はどうであろうか? 2010年度予算では、一般会計予算の半分以上を国債発行に依存しなければならない状態である。バブル破裂以来20年を経てなお、国債依存度は高まる一方ということだ。四の五の言わなくても、財政政策が景気浮揚策に無力であることはこれで一目瞭然であろう。こうした現実を目の当たりにしても、経済政策に過剰な期待をかける。このことがおかしい。
 景気浮揚に政策が効果を発揮するのは、経済成長あるいは景気回復への地合いが整っている時だけである。政策出来ることはその地合いを整えることである。年金・医療・雇用等への不安が大きいから、国民は浮揚策に乗って来ない。子供手当だって将来不安があるから貯蓄に回ってしまう。
 今政府がやることは小手先の経済政策ではない。国民が最低限安心して生活が出来るような制度を作ることこそが優先されなければならない。これに関しては成長なくして福祉なしという反論があろう。これも局面によっては真実である。だが今はそうした局面にない。しっかりした制度設計を図って、国民が真に安心できる国家を作らなければ絶対に経済は浮上しない。断言していい。