進路未定者の増加は大学の責任

 6日の読売新聞朝刊一面トップに、『大卒2割 就職せず』という見出しが踊っていた。内容は、「大学を今春卒業したが、就職も進学もしていない“進路未定者”が、5人に1に相当する約10万6000人にのぼることが5日、文部科学省が公表した学校基本調査の速報で分かった」というもの。
 さらに同記事は、進路未定者は「昨年度比役3割の増加で、10万人突破は5年ぶり」のことであり、一方で「大学進学率が過去最高を更新するなど、高校から大学、大学から大学院など上位校への進学率は軒並み上昇した」ことも伝えている。また「国公立の別では、私立が9万3000人と全体の9割近くを占めた」ということであり、進路未定者の6割超はいわゆる文系で、“私立文系男子”の苦戦が目立った」ということでもある。
 私が非常勤で出ている大学は正しく私立文系であり、就職戦線において男子の苦戦ぶりも実感としてよく分かる。授業への参加ぶりは女子の方が男子より積極的であり、問題意識も高く、したがって概して成績もよい。私が採用担当だとすれば、教え子男子からの採用は差し控えざるをえないと思う。教え子ですらこうした状態であるのだから、しがらみのない企業の担当者が男子学生の採用に積極的になれない気持ちはよく分かる。
 もっともここでは男女差の話を取り上げたいわけではない。議論しようと思うのは、大学教育における明らかなミスマッチ問題である。私立文系が就職で苦戦するのは当たり前のことである。少しも不思議なことではないと、私は考えている。有体に言って、大学教員とりわけビジネス系の教員はそもそも教育を拒否しているし、学生のレベルや社会のニーズを汲み取ろうとしない。これでは学生が就職できないのは当たり前である。
 世の中に数多の大学があるが、このなかの相当程度の学生が大学レベルの教育に対応できていないと思う。ゆとり教育のせいだけではないのだろうが、とにかく大学で学ぶための基礎知識は甚だしく不足している。そこへ高度?な教育を施そうとしても、砂上の楼閣どころではない。土台無理の上塗りである。
 私のささやかな経験がすべて敷衍化できるとは思わないが、一般常識や社会・制度に関する知識、それに日本語能力ですらそもそも未熟な学生にビジネスを教えて効果があるとはどうしても思えないのである。しかしながら、そうした学生を前にしても教員たちの多くは学生のレベルに合わせようとせずに、“自ら”のレベルあるいは“一般的”な標準に従って授業を進める。
 私自身大学の“教育”水準を保つことの必要性は十分に認める。決して否定しない。だがそれが現実的でないとするならば工夫が必要である。工夫が図られなければそれは画餅にすぎない。教員は一生懸命空回りしているだけである。何の益も期待できないトレッド・ミルをただただ踏み続けるだけである。
 確かに、今日の学生に基礎学力が不足するのは大学だけの責任ではない。それはそうである。しかしそうした学生でも受け入れた以上は、何とかするのが、大学の責任ではないのか? 言うまでもなく、私立大学の教員は学生が納める授業料で糊口を凌ぐ。そうした認識を教員各位が少しでも持つのであれば、学生が、大学に学んだことのアドバンテージを少しでも見出せるよう工夫を図るのが当然であるはずだ。
 だが残念ながらそう考える教員は極端に少ない。はっきり言おう。大学教員の大多数は“教育”が嫌いなのだ。大学というところは、教育の“嫌い”な教育者が君臨する魑魅魍魎の世界である。ただ紙切れにすぎない卒業証書を持つだけの存在を企業が雇わないのは当たり前のことである。大学における教育システムを根本的に変えなければ、大卒者とりわけ文系卒の受難はまだまだ続く。企業は人なりは本当である。不況期だからこそ本当はいい人材が欲しい。大学がそれに応えていないから採用が手控えられるのである。
 以上は教育“自体”の問題である。それと裏腹の関係にあるが、文系なかんずくビジネス系における教育“内容”が、社会のニーズに応えられていない点をもうひとつの問題点として強く指摘したい。社会経験がなく、まして基礎的能力に疑問がある学生に杓子定規な抽象的な教育を施しても、まったく無意味である。これは事例研究でも同じことである。社会経験の学生に事例研究を教え込んでも、所詮は彼らの頭のなかでは抽象論にすぎない。そのことが教員はまったく分かっていない。
 大学卒に従来から日本企業は即戦力を期待して来なかった。昔であれば商業高校の卒業生の方がはるかに即戦力としては機能した。大学卒は急がず焦らずじっくり将来の幹部候補として育成した。だが今はそんな時代ではなく、企業にも余裕はない。一方で昔の商業高校卒の役割を担う人材がいなくなってしまった(商業高校は今でも存在するが、昔のような人材を提供できなくなっている)。
 そうした現実を少しも踏まえずに欧米の猿真似にすぎない、ビジネススクールロースクールの屋上屋を重ねる。これは只管高等教育が問題を解決するという“意図”した誤解から始まっている。現実に目を当てると、今必要なのは頭でっかちの経営幹部では決してない。しっかりと会社の実務を担うことができる人材だ。そうした現状を踏まえると解決策は自ずから明らかである。
 大学のレベルではないと突き放すのではなく、現実をあるがままに受け入れ、折角の学生に少しでも付加価値をつけてやる姿勢が大事である。大学は有益な人材養成における最後の砦である。高等学校までに身に付けるべき知識能力が不足するのであれば、大学がそれを補完してやらなければならない。高校レベルの教育でも一向に構わないではないか?
 ただここで本心を言うと、ビジネス系の教員で高等学校レベルの教育ができる者はほとんどいないと思う。それは“研究”好き、“教育”嫌いというスタンスから伺われるように、「難しいことは好きだが単純なこと(実務的)は嫌い」という性根が続く限り永遠に無理であるからだ。
 では解決策はないのか? 私はビジネス系の学問の存在を否定しているわけではない。だが純粋(あるいは理論)研究者の数は如何にも多すぎる。研究者の数を絞って教育者の数を増やせばよい。この場合の教育者は実務経験者ということである。私の身の回りにも教育に意欲を抱き、かつ能力の高い人はいくらでもいる。こうした人材を活用すればいい。 
 ただこの場合ネックになるのは、博士号等の高度学位や研究論文が前提とされることである。大学教員だから博士号は最低限持っている必要がある。これはある一定の虚構のなかでは正しい。しかしながらそれを頑なに堅持して来たことが、今日の就職氷河期の一因をなし、惹いては大学危機の根源となっていることに思いを寄せれば正しい対応は喫緊の課題である。
 教育能力があるかどうかについて学位は何の証明にもならない。むしろ授業計画や模擬授業の検証こそ重要である。これを検討すれば9割かた判断がつく。それを学部が“学部自治”の虚構を大義名分として、重い腰を上げないのは自分たちの保身である。構造改革は国や企業だけではない。教育が国力の源泉ということであれば、大学にこそ必要と言ってよい。“学部自治”が本来の“学問の自由”“教員の安全”を守る手段という意味合いを既に失った今日、教授会のギルド的体質を改善するのは難しくないと思われるのだが…。