為替政策への疑問:市場を神と崇めるな

 円高が止まらない。これは米国がこけてしまった只今現在、行き場の無くなった投資(投機)資金が円買いに流れ込んでいることが主因である。こうした動きが顕著なのは“外為”大国中国である。中国のわが国国債に対する買い越し額は、5月7352億円、6月4564億円と、それぞれ月間ベースでの過去最高と第2位を記録している。
 こうした円高に対して、世のエコノミスト、ストラテジストといった方々は、何の衒いも無く日銀に対して一層の金融緩和を求めている。確かに市場の行動原理に照らせば、そうした策の採用は正しいのであろう。だが一層の金融緩和は一層の過剰流動性をもたらす。過剰流動性付和雷同のマネーである。これがまた悪さをする。悪循環である。
 金融政策は本来的に景気のコントロールに当てられるのが本旨である。だが外為をはじめとする市場対策に割り当てられることも多い。この場合、景気対策としての金融政策と市場対策としての金融政策は、その効果において齟齬を来たすことが多々ある。国内景気が過熱している時に、円高が進み、金融緩和を迫られる状況を想定すればいい。
 そうした意味では、今回は回復が中折れ状態であるなかでの円高であるので、一見政策的整合性は保たれるように思われる。だが金融緩和をいくら図っても景気が回復に向かわなければ、供給されたマネーは過剰流動性として滞留し、それがまたぞろ悪さをはじめてしまう。リーマンショック以前の米国は正にそうした状況であった。行き場のないマネーがサブプライム市場などをジェネレートした。過剰流動性とはそういうものである。
 市場の弁護を図る面々は「市場に変わるものはない」と言い、「投機だって市場の安定化に寄与する」とする。それはそうかもしれない。だが問題は市場が万能ではないという厳然たる事実である。今回の円高も超金融緩和によって、世界中に有り余ってしまった過剰流動性が蠢いた結果である。過剰流動性は金融市場という閉じた世界で暴れまわる。その結果また一層の緩和が図られ、そしてまたまた一層の過剰流動性が溢れ出す。
 市場のことは市場に聞けとよく言われる。このことは市場という存在が、基本的に実体経済と関係がないことを意味する。繰り返すが、金融政策は景気対策など実体経済をコントロールすることが、その本来的使命である。ところが実体経済と距離を置く市場が”市場の原理”で動き出し、金融政策がその対策に忙殺されれば、その間その本来的使命は放棄されてしまう。
 市場は自己完結原理でしか動かない。市場原理主義者はそのことを意識的に無視している。小泉・竹中路線の失敗はあまりにもそうした事実を隠蔽しすぎたからである。市場原理主義者は市場を神と崇める。しかしながらこの神は我侭で好色で快楽主義者の、ゼウスをはじめとするオリンポスの神々と一緒である。大いなる力は持つが、この力は必ずしも民のためには用いられない。彼らは現代社会では決して神と崇められることはない。
 まったくもって耐えがたい正真正銘の猛暑の続く今夏であるが、円高を巡るエコノミスト・ストラテジスト諸氏の言説を聞くにつけ、体内の血が沸騰する思いである。市場への過度なおもねりは曲学阿世以外の何者でもない。声を高くして言いたい。市場は万能ではないし、神でもない。そのことを忘れてしまうから、聞くに耐えないステレオタイプの言説しか吐かれないのだ。くそ暑い夏だからこそ、せめて頭もハートもクールにした議論をお願いしたい。