DON'T WORRY,BE HAPPY:元旦に思うこと

 自宅の居間でBOBBY McFERRINの"SIMPLE PLEASURE"というアルバムを聴きながら、この日記を書いている。McFERRINは、自分の口一つで伴奏からコーラスまでやってしまうジャズ界の天才である。ただ最近ではジャズのジャンルに止まらずクラシックの指揮までこなしており、むしろ音楽界の至宝あるいは鬼才と言った方がよいかもしれない。彼の音楽にはジャズと聴いた時の暗さは微塵もなく明るさに溢れている。一年の始まりには実に相応しい。
 ところで今年の干支(えと)は己丑である。これは訓読みで「つちのと・うし」、音読みで「き・ちゅう」と読む。干支で世の中の動きを占えるとは思えないが、これを「60年サイクルで歴史は繰り返す」という先人の知恵と理解すると大変示唆的である。「己」には乱れた糸筋を正して通すという意味があり、「丑」にはこれまで折れ曲がっていたものを真っ直ぐに伸ばすという意味が込められているということである。つまり「己」にも「丑」にも筋を通して突き進むとの意味が内包されているところから、この年は正しく規律を立てるべき年回りとなるということである。そういう目で今年の役回りを考えると、これまでの悪弊を正すべきチャンスの年ということになる。カネの亡者たちに破壊し尽くされた経済の再興が図られなければならないということだ。
 それには先ず経済に関する常識・幻想を棄てることから始めなければならない。日本学士院会員の小宮隆太郎先生(東大名誉教授)は日経『私の履歴書』最終回(12月31日付)で、世界の経済学者の人名録にである"Who's Who in Economics"に掲載される日本人が99年版の21人から03年版では7人にまで急減したことを嘆かれている。だが経済学はそんなに有効・有益な学問なのであろうか? 私は経済学を少し齧ったものとして、経済学の分析ツールの有効性は認める。頭の整理や考え事の整理には実に役立つ。今こうして雑文が書けるのも経済学の知識のお陰である。
 しかしながら経済学は自然の絶対的真理を追究する自然科学とはその役割が異なる。社会科学とりわけ経済学の発見した真理に従っても自然科学のような高い確率で再帰性・再現性を期待することは出来ない。それが常に部分的・相対的真理の発見に止まっているからである。したがってパラダイム・チェンジなどが生じれば一挙に真理が真理でなくなってしまう。このことは社会主義経済学の崩壊を想起すれば一目瞭然である。
 私ふぜいが気づくわけであるから、頭のよい先生たちは本当はとっくにそんなことには気づいておられるであろう。だが気づいていながら気づかないふりをするのは、先生たちがそれを生業としているからに外ならない。経済学の限界を宣言してしまえば天に唾するような話である。何よりも生計が立たなくなってしまう。しかしそうした社会科学における保身は万死に値する。その政策提言がわれわれの生活を直撃するからである。小泉政権下の竹中・高橋ラインによる市場原理主義政策、1980年代以降の米における市場放任政策などがその好例である。経済学が発見した真理には常に眉唾で臨まなければならないにも拘らず、経済社会をそのイデオロギーの実験場にした結果が今日のパニックである。達観すれば小宮先生のようにわが国経済学界の凋落を嘆く必要は一向にないのである。今必要なのは米国型経済・経営イデオロギーの呪縛からの解放である。米国が自ら掘った陥穽に落ち込んだこのチャンスを逃す手はない。
 経済政策を考えてみよう。経済政策の手段としては未だに財政政策と金融政策しか示されない。財政政策による景気刺激策は要するに財政支出を増加させることでしかない。税収が不充分な中で財政支出を増加させるためには赤字国債で埋める外はない。そうした財政政策が効果を挙げたか否かの評価は論者によって取り取りである。これが経済学が不完全であることの証左である。立場立場でごたごた言うからややこしくなってしまう。こういう時は単純に考えるのが一番である。赤字国債の発行が認められるのは「赤字国債発行→財政支出増加→景気浮揚→税収増加→赤字国債償還」というパターンでしかない。景気刺激に効果があったということであれば、どの時点かで赤字国債残高は減少に向かわなければならない。だがバブル破裂対策として94年に再び発行され始めた赤字国債は15年を経た今なお増え続けている。その事実だけで評価は充分であろう。
 次に金融政策である。金利を低下させてもある水準で”流動性の罠”の状態に陥り、初期の成果が期待出来なくなることは夙に知られている。これは流動性の罠などと改めて言わなくても、名目金利はゼロが下限であることを想起すればその限界は明らかであろう。またゼロ金利政策を採用せざるを得ない経済状況下では一時のわが国のように、物価が下落している公算が大きい。ということは、名目金利はゼロでも実質金利はプラスとなってしまうわけだ。この時点で金利が引き下げ効果を発揮しなくなることは、敢えて経済学を援用しなくても理解される単純な事実である。
 金利に関して『文藝春秋』本年2月号に元日銀審議委員の中原伸之さんが面白い見解を寄せている。昨年10月末の政策金利の利下げに際して「市場の期待(0.25%)に反して0.2%の利下げに止めたのがけしからん」と仰るのだ。中原さんは東燃社長も経験された実業家であり、斯界の碩学である。ただの空理空論の学者先生とは異なる。その中原さんにしてこうした見解である。限界を認識せず、なぜこんなにも無邪気に金利政策を信頼するのであろうか? 実業家として中原さんは0.05%の金利の重みを感じておられるということなのかもしれない。でもそれ以上に通説を鵜呑みにするのではなく、ご自分の頭でよくお考え頂いた方がよいように思われる。
 つまり財政政策も金融政策も当然のこと限界があり、またそれ以上にパラダイム・チェンジがあればその有効性すら失われてしまうということである。現在古典的な経済政策がうまく行かないのは、有効な政策手段を失っているということであるわけである。そんなことに拘りすぎるから定額給付金のような噴飯物の発想しか出て来ないし、景気刺激と言えば財政支出の増加・金利引き下げという条件反射的対応しか図られない。
 本当に100年に一度の危機という認識で一致するのであれば、こうした小手先の対策では景気回復などとても叶わない相談である。今求められるのは日本丸をどういう理想に向けて発進させるのかという、骨太のグランド・デザインである。日本経団連の会長会社が率先して行なう派遣切りに代表される「職」の安全保障、ますます低下する食料自給率あるいは食品偽装などに見られる「食」の安全保障、救急医療・産婦人科医不足で赤裸々となった「生」の安全保障、社保庁の不手際・年金制度設計の不充分性に由来する「老後」の安全保障といったように、国民の基本的な安全保障が脅かされているわけである。人間として生まれて最小限の生存権も脅かされるような状況では景気回復はあり得ない。これではいくら財政支出を増やし金融を緩和しても国民は踊らない。経済の領域はもはやエコノミストの仕事なぞではなく、ポリティシャンの仕事になっているのである。それを間違えてエコノミストに問うから一層間違いが大きくなってしまう。
 国民が望むのはGDP世界一を目指すことでもなく、大金持ちになることでもなく、巨大企業を輩出させることでもない。まして世界で覇権を競うことなどでは決してない。普通に頑張れば「衣食住」が過不足なく満たされ、平和に生きることが出来ることである。そして「この国に生まれてよかった」と死ぬことである。それが真の意味での国民の安全保障ということである。こうした価値判断を掲げて邁進しなければ、閉塞状況は絶対に打開出来ないというのが私の考え方である。冒頭触れたMcFERRINのアルバムは"SIMPLE PLEASURE"であった。これが多分洋の東西を問わないヒトの本質的な欲望である。またこのアルバムの一曲目のタイトルは"DON'T WORRY,BE HAPPY"である。今年の年頭にこそ如何に相応しい音楽であることがご理解頂けるのではなかろうか。