官僚OBの欲しがる三点セット

 民主党天下り根絶の方針を打ち出している。天下りが独法(旧特殊法人、以下独法)を乱立させ、そのことが財政負担を増し、財政赤字の一因となったことは間違いない。だが独法が全て無用なわけではない。充分に機能しているものも少なからず存在する。少なくとも天下り憎しと、独法無用論とがワンセットで論じられることはおかしい。行政改革の観点からは天下問題とは別に、各法人を精査することの必要性は勿論認められる。しかしここではこれについてこれ以上論じないこととする。
 ところで官僚の立場に立てば正規の定年が60歳であるにも拘らず、キャリアについては早ければ40代後半から肩叩きが始まり、それに応じて彼らは慣行的に自主退職せざるを得なくなる。最近では以前と比べれば、そうした肩叩きの始まる年齢もゴム伸ばしされているようではあるが、それでも50代半ばになれば次官コースを勝ち抜いた人以外本省に残る人はほとんど皆無となる。
 彼らにも当然生活の問題があり年金支給開始を65歳とすれば、50歳そこそこで放り出されたのでは爾後の15年間途方にくれることとなってしまう。良し悪しは別にして、彼らが抵抗勢力となって当たり前である。ただしこの問題の解決は極めて単純である。定年まで在籍させればよいわけだ。しかしその場合人件費負担増が懸念材料とされるが、単純に考えれば、これは独法で支払うべき人件費との比較考量問題ということであるわけだ。
 例えば高級官僚のAさんを65歳の年金支給開始まで、50歳で独法に転籍させる場合と、60歳の定年後に転籍させる場合とでは、本省と独法のトータルでどちらの給与負担が大きくなるかということである。この解は極めてシンプル・シンキングであって、行政改革の効果をあげるためには、定年まで置いた場合の本省・独法通算の給与が現状を下回るように制度設計を図ればよいわけだ。こうした観点からは、渡りによる退職金のぶったくりなどもコントロールされることとなるであろう。
 60歳までの在籍を認めるためには、いずれにしても制度改革が必要になるということだ。少なくとも定年まで全官僚の在籍を認める場合には、これまでどおりの制度運用では破綻は目に見えている。それには地ならしが必要であるわけだ。その地ならしとしては、第一に、人事考課による信賞必罰制の導入、第二に、一定年齢以上の給与削減(つまりどこかで頭打ちとし、定年まで給与が上がり続けないようにする)、第三に、天下りの場合、最終職位の給与以下にすること、の3つをあげておきたい。
 なお、こうした制度改革を成功に導くためには形を作るだけでは駄目なのであって、その実態にも切り込まなければならない。高級官僚と言われる人たちは、現役時の処遇(とりわけ給与)に被害者意識を持っており、退職後にそれを取り返そうとする傾向が強い。ここには自分は官僚として偉かったのだから、退職後もそれ以上に遇されなければならないという意識が働いている。そうしたところから彼らは退職後も、ある意味報酬以上に、事務所、秘書、車の三点セットを強く求めることとなる。これに相当の交際費が使えればなお嬉しい。この三点セットは彼らの体面を保証するものである。
 天下りを禁止するのであれば、その代替案として正規の定年まで在籍を認めなければならないと考える。しかしそれには3つの地ならしが必要であるとした。その第一が信賞必罰性の導入である。このことは結構重要な意味を持っているわけで、如何に高級官僚であっても、「今日より明日が必ずよくなるものではない」ことに予め慣れて欲しいという親心から、そのことを条件として掲げた。
 客観的にも次官や局長の職位がいくら偉いものであっても、退職後も税金でその見栄を満たそうとするのは、国民感情から見て許しがたい行為であるわけだ。官僚はそのことに気づいているのかもしれないが、現象面的には、現役時代の悲惨な(?)処遇を言い訳に中央突破を図ろうとする。天下り禁止については、官僚のそうしたメンタリティにまでメスを入れなければ何も始まらないということだ。
 ここでは天下りを独法に限って考えた。組織(官庁)を離れても民間でその人材が欲しいということであれば、それを妨げる必要はない。そうした本当に選ばれた人が必要に応じてどう遇されようとわれわれの関与するところではない。他方官僚がおいしい仕事でないのだとすれば、彼らはその職を選ばなければよい。そして仮に優秀とされる人材が霞ヶ関から遠のいたとしても、それでも世の中は回る。一国の総理大臣や大統領が遭難したとしても、それでも国が滅びることはないのだから…。要らぬ杞憂はご無用ということだ。世の中そんなものである。