官僚の真髄は文書課にあり:そして民主党への苦言

 お役所には文書課という民間では耳慣れない部署がある。こうした文書課は従来から、中央官庁、地公体ともにおいてその名称で設置されるのが通常であった。もっとも今では、中央官庁の再編等に伴ってそうした名称も使われることが少なくなったが、中央官庁ではなお財務省にこの名称が残っており、日銀では課どころか文書局の名称でこうした組織が現存するわけだ。他方、県・市の地公体の相当部分においてもこの名称の組織が維持されている。
 では文書課とは何ものであるのだろか? 財務省ホームページの説明によれば、文書課は、財務省のいわば総務課として、重要な問題や各局間に跨る問題について、方針を定め、意見調整を行い、財務省として最終的な意見を決定するための舵取りを行うところということだ。またより具体的には、国会・各政党との連絡調整、国会関係の情報・資料の処理、国会における質問・答弁の取りまとめなどを行い、そして、各局の政策として国会に提出される法律案を精査するのも文書課の重要な仕事ということである。さらに、文書課では財務省の組織マネジメント(機構・定員)も行っているということだ。
 なお従来から、中央官庁において次官コースに乗るためには、官房秘書課長、文書課長、会計課長のいずれかへの登用が必須条件とされて来た。民間で言えば、秘書課長は人事部長、文書課長は総務部長、会計課長は経理部長ということである。こう見た方が、文書課長のポジショニングは理解されやすいかもしれない。
 もっとも個人的な出世コースなどどうでもいいことである。私が今回文書課について取り上げたのは、これがお役所における仕事の真髄と理解するからである。なおこれは、官僚の真髄と言い換えてもよいかもしれない。財務省ホームページの説明に見られるように、要するに文書課は、調整という仕事を除けば、所管の法律と制度を取り扱うセクションということである。三権分立の建て前から言えば、行政では、法律に基づいて作られた制度を万事遺漏なく、かつ整合的に運営することこそがその主要な役割である。法律あるいは政策の立案・制定を“政”の専管とすれば、“官”の役割がより鮮明となろう。
 翻ってこの夏、TBS系で城山三郎の作になる『官僚たちの夏』が放送された。この中では、主人公のモデルとされる佐橋滋の政策に掛ける熱い思いと、プラグマティックな政治家との抗争を主軸としてドラマが展開されていた。有体に言えば、主人公は政治家を無能呼ばわりする一方で、自分の子飼いの部下と協働して、自らの思いの実現に驀進するのである。彼の想念は「国家百年の計は全てわれにあり」ということであったように理解される。
 これは飽くまでもドラマ仕立てであるから、正義は主人公にある。城山がそこまで考えていたかどうかは知らないが、官僚こそが国家の支柱であり、そして彼らは間違いを決して犯さない。だが実際に実行された政策は沢山の間違いを犯している。例えば佐橋の肝煎りで、特定産業振興臨時措置法(特振法案)という法案が国会に上程された。この法案は結局廃案となるのであるが、そこでは国際競争力を高めるために、特定の産業における過当競争を予め排除することがその主目的とされていた。
 具体的には、自動車産業などがこうした特定産業に指定されることとなっており、この法律が成立していれば、予め選に漏れたホンダなどが四輪生産を不可能とする公算が大きかったわけだ。結果論であるかもしれないが、ここに、官僚の無邪気かつ善意の政策提案がホンダ台頭の芽を摘んでしまう可能性があったということだ。そう考えれば、やはりそれが善意であっても悪意であっても、どこかで官僚の暴走を止める仕組みが講じられなければならない。しかし、にも拘らず自民党政権下ではそうした体制がうまく仕組まれなかったということである。
 日本の官僚が大変優秀であることは論を待たない。そして『官僚たちの夏』に見られるように、総じてモラルが高く、志士の意気に燃えてもいた。しかしながら彼らの志操をよしとしたとしても、考えなければならないのは、彼らの本来的な仕事の役割分担とその統制である。
 役割分担については前述したように、“官”では、法律に基づいて作られた制度を万事遺漏なく、かつ整合的に運営することが第一である。政策立案に比べれば、制度を粛々と運営することは地味で妙味に欠けるかもしれない。だがこれは“官”の仕事として極めて重要なものである。年金問題に関しても、例えその基本設計に瑕疵があったのだとしても、真摯に本来的な職務を遂行すれば、今日のように問題が大きくなることはなかったであろう。要はキャリア・ノンキャリアともに、自らの職務に忠実でなかったということだ。
 なお民主党政権は徒に“官”との対立姿勢を打ち出しているが、もっと大人にならなければならないであろう。“官”の役割は重要である。そのことを忘れて、天下りの禁止、政治任用などの枝葉の議論によって中央突破を図ろうとしている姿勢が気に食わない。大事なのは、官僚を押さえ込むとか、使いこなすとかいう喧嘩腰の議論ではなく、本来的に“官”の役割とは何であるかを政官一体となって整理することであろう。その工夫と知恵が足りない。
 結果、そうして整理された仕事が“政”に移ってしまうことは大いにありえよう。官僚の皆さんが、もし残された仕事に満足感を覚えないというのであれば、その時点で民間に行くのもよし、政界に進出するのもよしということではないだろうか。松下政経塾のせいばかりではないのだろうが、国民は、民主党の大臣先生がたが「小学校の級長」とダブってしまうことにそろそろ苛立ちを覚え始めている。官僚退治も結構だが、そのことに早く気づかなければ先に進まない。