経済学は社会科学の女王か?

 私は、若い頃に少し詰めて経済学の訓練を受け今現在も大学で教えている。しかし基本的に市井の研究者にすぎない。市井のという意味は、軸足がビジネスの世界にあり専門の研究者ではないということである。そうした目で見れば見るほど、経済学などはとても社会科学の女王とは思えなくなってくる。物理学は自然科学の王と言われる。これとの対比で社会科学の女王と言われるのであろうが、こうした思い上がりが実は大変困った事態を引き起こしているというのが、私の強く認識するところである。
 自然科学の法則性は一つのパラダイムの中では、ほぼ完全である。完全ということは、発見された法則性を土台に議論が進められても大過ないということである。翻って経済学は如何であろう。この数十年の間にもケインズが否定され、また復活する。市場経済擁護の祖とされるアダム・スミスなども、彼の意図するところに忠実に従えば、市場原理主義者の主張することにはならないのだと言われる。
 物理学の世界において、万有引力の法則が発見され、それが否定され、また復権するなどということがありえだろうか? 勿論大きなパラダイム・チェンジが起きて、ニュートン力学の枠組みがアインシュタイン力学のそれに吸収され、昇華されるということはある。だがそれはパラダイム・チェンジの中で万有引力の法則の解釈が変わっただけのことであり、ニュートンパラダイムの中ではそれは万古普遍の法則である。ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へのチェンジなども同様のことである。
 経済学の中の議論はこうした自然科学の議論とは明らかに異なる。自然科学に擬することなどとてもおこがましいことなのである。暴論的にいえば、経済学の法則性などはないと見た方がよいのである。その証拠に、満足のゆく経済予測などにお目に掛かったことがあるだろうか? これに関してガルブレイスは「そもそも経済学者は予測など出来ないのだ」と言う。ではなぜ学者は予測をするのか? それは「聞かれて答えられないと、権威を失墜するからだ」ということなのである。
 自然科学で発見した法則は、同様の条件の中では高い確率で再現性・再帰性を持つ。だが経済学ではそうならないことが大多数である。気象予報と同じように、環境の複雑性が前提とされるにしても、これは明らかに経済学なるものが科学性を欠いていることの証左である。経済学に自然科学と同じような科学性を期待してはならないのである。もっと言えば、経済学者を手放しで信じたり、その御託宣を有り難がってはならないのである。
 現在経済学の中では、情報の経済学が旬である。2001年にはこの研究への業績によって、スティグリッツらにノーベル賞が与えられた。この理論のエッセンスは「情報を持っている人」と「持っていない人」の間で繰り広げられる、言わばゲームで経済現象が説明されるということである。
 具体例を、この理論を金融とりわけ中小企業金融への応用を図っているアーデルに従って見てみよう。中小企業金融が大企業金融に比べて困難性が大きいのは、貸し手が借り手に関して不十分な情報しかえることができず、十分な情報をえようとすればそこに膨大なコストがかかるからだという。こうして発生するコストが中小企業金融の障碍となり、その大きな前提として貸し手・借り手間の情報ギャップがあげられるということだ。
 また同様に中小企業金融への応用において、アーデルは、銀行組織内における貸出担当者と管理者の間の情報ギャップについても指摘する。借り手に関して担当者が情報を十分に持っているのに対して、管理者は少ない情報しか持たない。そしてこの場合、担当者と管理者との間ではインセンティブが異なるために、担当者は管理者に十分な情報を与えないこととなる。またその裏には、担当者と借り手の個人的な関係、将来的な就職(面倒見た見返りに借り手企業に天下る)、あるいは賄賂などの存在があるというのである。
 しかしこれに関しては、アメリカのことはいざ知らず、少なくとも日本の銀行の実務においては、借り手企業をグループあるいは複数で管理することが多く、組織内においてこうした情報ギャップが生じることは稀であるわけだ。一方、担当者と借り手の関係も日本の銀行の担当者のモラール面・処遇等から見て、こうした懸念は現実的ではないはずである(勿論、皆無ではない)。
 少々偉そうに言えば、実務者の目から見れば、ノーベル賞を取った頭脳もこんなもの(?)なのである。言いたいのは、経済学で発見された法則は、その分析対象とされるところの組織・文化・民族性等に大きく依存するということである。平たく言えば、アメリカで発見された法則が日本でそのまま通用するとは限らないのである。だが現実は、アメリカで勉強してきた研究者が重用され、また影響力も強い。
 私は浅学菲才の身であり、頭も悪い。だが素朴な疑問に答えることのできない学問はやはり学問と言えないと考える。裸一貫で企業を成功に導いた多くの経営者は、経営学など頼りにしない。それはいくら抽象化されたものであるとは言え、彼らの皮膚感覚と合わないことが多いからである。
 達観すれば経済学の世界は虚構空間の議論である。その虚構空間も自然科学の実験のように現実を模したものであればまだしも、それが明らかにご都合主義からの捏造であっては困るわけである。ミンツバーグは「ビジネス・スクールの事例は教授陣の都合で俎上に載せられるものが多い」と指摘する。都合で俎上に載せれば、事例の選択において偏りが生じ、それが行過ぎれば現実から大きく乖離してしまうこととなる。そこに虚構空間が創造されることとなる。経営学という個別企業を対象としたマイクロスコピックな研究においてもそうなのである。ましてマクロ経済学などの視界の悪さは論を待たない。正しく雲を掴むような話であるわけだ。
 私は、経済学の分析ツールとしての有効性・有益性は否定しない。つまりは経済を考える時の道具立てとしては重宝するということである。しかしそれを社会科学の女王などと祭り上げることには強く異議を唱えたい。今年中に中国は日本を抜いて世界第二位のGDP大国になるのだそうである。これなども決して一喜一憂する話ではない。所詮GDPという仮想空間の中の出来事であるにすぎないからだ。経済大国を享受することはどういうことか? 経済学における虚構空間・仮想空間の議論を押し進めることこそ重要と考えるのである。