低金利政策のつけ:失われた個人消費から考えること

 世界金融危機への対応策として、各国政府はありとあらゆる政策を動員し、なりふり構わない対応策をとろうとしている。金融政策も思い切った対応が図られ、主要国の金利は軒並み限りなくゼロに近い水準に向かい始めている。一旦底打ちしたかに見えたわが国の金利も、再び低下を余儀なくされている。
 失われた10年か15年かは知らないが、私はバブル崩壊後採用されたゼロ金利政策によって、わが国経済は個人消費を中心に一層の停滞が促進されたと思っている。
 数字を見てみよう。国民経済計算(SNA)によれば、1996年(暦年:以下同じ)の家計部門の財産所得(受取)は40.2兆円であった。それが以降年々減少し、ボトムの2003年には20.8兆円とほぼ半減している。2004年以降は少しづつ増加に転じているが、それでも2006年の水準は1996年比で50%を少し上回る水準に止まっている。
 1996年をベンチマークとして年々の逸失利子(利益)を単純に累積させると、10年間の合計で127.4兆円となる。年平均で12.7兆円の利子が失われたということである。ただこの間家計の金融資産残高は、1996年の1,283.0兆円から2006年には1,572.2兆円まで増加しているのでこの影響を除く必要がある。この影響を除くと、累積値148.9兆円、年平均値14.8兆円とさらに増加する。
 一方この10年個人消費(民間最終消費支出)は280兆円台で推移しており、逸失利子の14.8兆円はそのほぼ5%となる。またGDP(国内総生産)は500兆円程度で推移しており、逸失利子はその3%となる。つまり、1996年当時の金利水準がその後の10年間についても維持されていたとすれば、毎年個人消費は5%、GDPは3%嵩上げされたということである。
 勿論こう単純には行かないことは百も承知である。とりわけ計量経済モデルによる計測によれば、消費に関する乗数は3年目までは大きく”1”を上回らないことが実証されており、その分上記の効果は割り引かれる必要性はある。ただ言わんとするのは、そうした議論がそれにしても足りないということである。民主党なども金利を上げる必要性を説くのだが、その声は如何にも小さい。
 金融政策の効果は資金余剰国と不足国で違うし、成熟国と途上国でも異なるであろう。そうした環境に配慮せずに、景気が悪くなれば必ず金利引下げということになるが、その弊害も視野に入れなければならないということだ。株式の資産効果はよく言われる。しかし預金・債券の資産効果についてはとり上げられることが少ない。それが決して無視されてよいものでないことは、上記の数字から明らかである。
 今この時点で「金利を引き上げろ」ということは、為替の問題も手伝って如何にクレージーであるかは充分に理解している。だがそもそも日本経済は暗黙裡に5%程度の金利を前提とした運営が図られて来たのではなかったのか。例えば企業年金の予定利回りなども、この近辺でセッテイングしていたケースが多かった。それが金利資産の運用ではその利回りを達成出来なくなったところから、株式での運用を増やすこととなり、結果株価暴落で大火傷を負ったわけである。
 政策でも何でも、既成概念に雁字搦めになって逼塞するのでは先の展望は開けない。麻生さんはすっかりとち来るって、なりふり構わないばら撒きで景気回復を狙うと言う。だが多分結果は残るのは借金だけということになることは間違いない。なぜならばそこには新しい時代の理念が少しも掲げられていないからだ。
 財政支出を増やせば、恒等式的にGDPが増加するのは当たり前のことである。問題はその限界乗数が”1”を上回らなければならないということだ。”1”を上回らなければまたぞろ借金の山である。経済政策が所期の効果をあげるためには、安心して消費し投資を行なえる環境が必要である。そうした環境を作るためには、国民的合意の得られる理念、国として向かうべき方向性の議論がまず必要である。
 本件に関して言えば、「株価に頼る経済が好ましいのか」、あるいは「ある程度の金利水準がビルトインされた経済が好ましいのか」という判断の問題である。つまりこのことは、どちらの金融体制が国民にとって真に望ましいのかという哲学の問題である。価値観の問題である。価値判断を捨象して発展して来た近代経済学であるが、今回のように市場の失敗が大きな災厄をもたらすのだとすれば、国の根幹を左右する制度設計においてはやはり価値判断が必要ということではないのだろうか?