経済学者はおかしいことに気づかないことがおかしい(下)

 (続き)これまでのところを整理すると、経済事象に関する実態に即した説明性の向上を求めて、経済理論に関してマクロ経済学ミクロ経済学→比較制度分析(ゲーム理論等の行動経済学も分析ツールとして含む)と深化させてきたわけである。確かに比較制度分析のレベルでは、かなり実務に近いところでの実態解明が進んでいる。しかしこのアプローチで実態を違和感なく説明しきれるかというと未だ必ずしもそうではない。
 これには、その背景として先に指摘した要素還元主義及び二分法(あるいは二者対立法)の考え方が深層に横たわることの影響が大きいものと、私は考えている。要素を還元するのはよい。問題はそうして見つけ出した要素の再構成に際して、俎上に載せた分析事象が果たして過不足なく再現できるか否かということである。過不足なく再現するためには未だかなりきつい条件が付されなければならないというのが、私の私見である。
 次いで二分法である。中島岳志文明の衝突を超えて』(日経新聞/やさしい経済学)では、ものの根源的な考え方として“西洋的二分法”と“東洋的多一論”のあることが指摘される。“東洋的多一論”というのは、多くの意見が百出する中で「バラバラでいっしょ」の境地を追求する思想ということである。これに対して“西洋的二分法”では、常に世人は二分され、基本的に対立する存在として扱われて議論される。天使と悪魔、神と僕、資本家と労働者といった類がその例である。
 ゲーム理論においては、ゲーム参加者の対立を“基本”として論理が展開される。これは必ずしも“非協力”ゲームばかりを意味するわけではなく、例え“協力”ゲームであってもその基本構造が“利得志向”という、言わば人間のエゴが前提とされる限り、その根底に“対立”を意識しないわけにはいかない。非対称情報の議論も対立関係が大前提である。ここでは、情報を“持つもの”と“持たないもの”の対立関係を機軸に議論が進められる。
 対立関係はエゴが根源である。ゲームの参加者は少しでも自分の利得を高めるよう行動し、非対称情報化にある二者も同様に自分に有利に情報を活用しようとする。そしてこれらの場合、“無償の行為”、“利他的行動”などは端から分析の俎上から外れてしまう。つまり利己的人間のエゴの追求を前提としなければ、そもそもこうした議論は成り立たないのである。
 私は冒頭基本的にビジネスマンであることを述べた。そうしたビジネスマンの経験あるいはこれまでの実務経験からいって、例えば非対称情報の議論で対立関係にあるとされる管理職と部下の関係において、わが国においては基本的にそうした対立関係は見られないといってよい。むしろチームで一つの目標に向けて協働するのが実態である。マクレガーのX理論・Y理論に従えば、わが国のビジネスマンは「自発的に行動し向上のために努力を惜しまない」Y理論的人間ととらまえた方がより実態に近いということだ。上司に対して敢えて情報を伏せて自らに有利なように仕事を進めるものは皆無とまではいわない。しかし極端に少ないと見てよい。わが国の企業文化を前提とすれば、非対称情報の議論なども必ずしも通用しない場合が多いということであろう。
 青木・奥野『経済システムの比較制度分析』では、一国の経済制度はその歴史的経路に依存する場合の多いことが議論される。すなわち同じ資本主義、市場経済主義といっても、その背景にある歴史・文化・民族性などを踏まえれば、形の異なる場合が多いということである。こうしたアプローチに私は全面的に賛成である。ただ諸手をあげて賛同できないのは、そのベースにゲーム理論、非対称情報理論といった人間の“エゴ”を前提とする考え方が採用されているために、発見された要素を元に再構成を図っても多くは思ったように事象の再現が図られないからである。
 青木(昌彦)先生にしても、奥野(正寛)先生にしても尊敬に値する経済学者である。私ごときが指摘するまでもなく、先生がたは先刻ご承知のことであろう。しかしながらこれは一般的にいえる話であるが、ツールにこだわりすぎれば分析が実態からますます遠ざかってしまうことが多々ある。先行研究にこだわり分析をロジカルに進めようとすればするほど、そうした傾向は強まる。これは経済分析が嵌りがちな大きな陥穽である。もっといえばこれは経済分析の限界ということであるかもしれない。
 私が基本的にビジネスマンであることを強調したのは、中途半端なエコノミストであるために経済理論にあまり忠実でないことをいいたかったためである。理論は勿論尊重する。しかしそれに絶対的な依存はしない。誤解を怖れずにいえば、時として経済学の“純粋”専門家は実態を理論に合わせようとする傾向が強い。それがその道の“権威”であればあるほど無謬性と論理性を追求しすぎるために、そうした過ちを犯してしまうこととなる。如何せん経済主体が合理的な行動をとるものでないことに今頃気づき、非合理行動を前提とした経済理論は漸く緒についたばかりである。達観すれば経済学300年の歴史の知恵もせいぜいそんなものである。
 このことに関して、ガルブレイス『経済学の歴史』では、「この良き時代の経済学者は信用のおける人だと考えられていた。多くの経済学者は、(経済予測について)知っているがゆえに答えたのではなく、職業上の習慣から多かれ少なかれ自動的に答えたのである。こうしたことは経済学者なら当然知っている筈だとされていたのだ。これほど多くのいかがわしい情報がこれほどの自信を持って提供されたことは、歴史上稀であった」と極めて手厳しい指摘がされている。ガルブレイスがいいたかったのは、経済学は不完全であり、確たる予測はどんな権威であっても示しえないということである。もっといえば、そんなことは分かりきっているはずなのに、敢えて発言するのは恥知らずということであろう。
 経済学はどんなに理論が精緻化されようとも、所詮不完全性から免れがたい。そのことを経済学者は肝に銘じて発言すべきである。つまりどんなに自分の中で議論が煮詰まっても、その正しくない可能性も大きいということである。私は経済政策の誤りは大量殺人に匹敵する犯罪だと考えている。政策の誤りによって自殺にまで追い込まれた人は少なくない。政策決定のプロセスには多くの人がかかわるために、特定の人物の責任を追及することは困難である。だがポリシー・メーカーはどんな場合にも経済学の不完全性を充分に意識しなければならない。私が中谷(巌)さんや竹中(平蔵)さんを非難するのは、彼らがそうした原点をわすれていたからである。それを忘れれば、どんなに力のある学者でも曲学阿世の徒となってしまう。
 経済学批判に終始した。だが分析ツールとしての経済理論は尊重する。要は経済学徒は経済学の限界を知った上で研究に勤しみ、外に発言すべきだということである。そして経済学の限界を如実に感じるためには、社会経験・実務経験が必要ということである。実際の経済に携わったことのない人が経済や経営を論じるのはどう考えてもおかしい。そのおかしさは童貞・処女がセックスを論じることに通じる。妄想を膨らませるばかりでは、一向に実態に迫ることのできないことは誰が見ても明らかであろう。それに気がつくのであれば、経済・経営学徒が自らの分野で起きていることのおかしさに気がつかないことがおかしいということだ。
 特に若手の研究者には今からでも遅くない。実務を経験することを勧める。正直いって社会科学系の“純粋”培養研究者は概してレベルは高くない。それはモラトリアム志向の強い者が多いからだ。セックスに憧れていても実践を踏まなければ先に進まない。そのことが理解できるのであれば、勇気をもって社会に飛び込み、その上で学問への情熱が捨てがたければ研究生活に戻ればよい。そのことが大学にとっても社会にとっても、そして何よりも学生にとって望ましいことであることに気がつかなければならない。