『結党!老人党』に拍手

 私ごとであるが、このブログを書き始めて今日で丁度1年である。今回の分は122回目になる。1年でほぼ120回であるから3日に1度書いてきたことになる。ただこれは最初の頃に書きたいことが一杯あって、ほとんど毎日書いたためである。最近は書きたいことがないというより、このボリュームを毎日書くことに少し疲れており、週1ペースにダウンしている。ともあれこの1年お付き合い頂いた方には心から感謝申し上げたい。
 本題に入る。この前の日曜(9日)に、WOWOWで放送されたドラマ『結党老人党』は面白かった。蛇足ながらWOWOWで制作されるドラマは、地上局が作るものより概してよく出来ているものが多い。三菱自動車の事故を題材とした『空飛ぶタイヤ』などもその一つである。
 『結党老人党』は、笹野高史さん演じる年金暮らしの主人公宮下辰夫が、「政治の腐敗に耐え切れずに、一念発起して総選挙に立候補。接戦の末に当選を果たすのみならず、弾みで総理の座まで獲得する」という、たわいがないと言えばたわいのない筋書きである。具体的な公約も、「現状の政治の腐敗を正し、清潔にした政治を次代の心ある若い世代に受け渡す」、その一点だけである。
 7月30日の本欄で、私は民主党マニフェストを批判した。人気取りが見え見えのために総花的で支離滅裂になってしまい、少しも民主党の顔が見えてこないことに強く不満を感じたからである。マニフェストの出来としては大方の評者が指摘するように、自民党の方が上である。余談ながら、個人的には社民党マニフェストが一番心に響いている。何のための公約かということが明確で、機軸にブレがないからである。
 そうした目で『結党老人党』を見ると、老人党は「政治から腐敗を一層する」としか言わないわけだ。腐敗を一層したあとは「後代に託す」と言うのである。腐敗かどうかは別にして、今自民党が劣勢を伝えられるのは、55年体制の構築から半世紀を超え、国民がさすがに自民党政治に倦んだというのが最大の理由である。
 極論すれば、自民党民主党の公約の違いなど少しも気にしていないのである。田原総一朗さんあたりがマニフェストマニフェストとうるさく、首長連合あたりもマニフェストを吟味したうえで支持政党を決めると言うが、「国民はそんなものを望んでいないこと」に気がつかないことがそもそもおかしい。国民心理を理解していないことの証左であろう。
 そこまでいかないとしてもマニフェストを一瞥して、自民党民主党の違いを理解出来る人はいるであろうか。当の自民党民主党の先生がただって、その違いを明確に認識しておられる方はほとんどいないのではないだろうか。もう一度言う。国民は政策面で自民党民主党の違いを期待しているわけではない。老人党が掲げるような「正しい政治・清潔な政治」をどちらがやってくれるかという関心でしかない。
 また先般も指摘したように、マニフェストが細かくなればなるほど、支持政党の政策であっても支持したくない場面も出てくる。個別政策に反対であっても、やはりその政党を支持せざるをえないということは国民にとって大きな矛盾である。そうした矛盾が明らかであるにも拘らず、マスコミはマニフェストがなければ夜も日も明けず、そうして出されたマニフェストを絶対視し、それを修正すればしたで政権党としての未熟をあげつらう。
 考えて頂きたい。皆さんが結婚を決意する時に、相手をどこまで知りえていたか。思想信条や心根、遺伝子構造などをどこまで知りえていたか。これはもしかしたら私だけのことかもしれないが、判断基準は雑駁なフィーリングでしかなかった。これを微に入り細に入り細かい項目に亘ってチェックすることとなれば、結婚などとても出来なくなってしまう。マニフェストも同じことである。
 今民主党に託された使命は、とにもかくにも政権を奪取して、自民党的政治を終焉させることである。政権奪取後に民主党が「正しい政治」を行えばそれにこしたことはない。だが国民目線と異なる方向に進むとすれば、そこでまた国民のチェックを受けなければならない。それだけのことである。それ以上を現状の民主党に国民は期待してはいない。
 マニフェストが細かくなればなるほど、それに反比例して政策の実行性が低くなることは間違いない。どちらが与党になりどちらが野党になっても、国会ではその実行性について不毛な議論が延々と続くこととなる。
 環境問題を例にとれば、環境保全という大義を果たすためにはいくつもの道がある。その大義を果たすための一つの道をマニフェストで約束し、その後また別に優れた道が発見されたとして、マニフェストの約束を実現出来なければ公約違反となってしまうのか。理屈ではそんなことはないと思うが、現状の国会のレベルを想定すればそうなっておかしくない。否そうなると考える方が正しい。また混乱である。
 マニフェストには実現すべき大義がまずなければならない。今各党がマニフェストに書き込んでいるものの多くは手段にすぎない。示される手段は例示であってよい。手段は手段にすぎず、絶対視されるものではない。そうした基本的認識を忘れ、かつ大義の議論を避けるから手段レベルのせめぎあいが起きてしまうのだ。現状の姑息なマニフェスト論議はもうやめにして欲しい。それを切に願う。
 最後にもう一度言う。民主党に期待するのは取り敢えず「自民党体制を引っくり返す」ということだ。老人党のように「正しい政治」をここで回復することである。そのための大義を掲げることは必要であるが、それらの実現手段は政権を奪取したあとの議論でよい。この場合決して拙速に走らず、出来ないことではなく、出来ることの議論を進めることが肝要である。