だから経済学者は笑われる:どうやって真の専門家を見抜くのか?

 5月31日付日経新聞『経済論壇から』に、東京大学教授の松井彰彦先生が世界大不況に対応するためには、「真の専門家を見抜かなければならない」という趣旨での論評をお書きになっている。
 この中で取り上げられている各論者の主張を見てみよう。「今回のグローバル経済危機で死んだのはフリードマンを代表者とする新古典派経済学であり、これからは経済学のもう一つの理論である不均衡動学が復活する」(東京大学岩井克人教授)、「現在にわかケインジアンらによって再評価されている経済学は、財政支出の景気下支え効果とそれによる財政拡大路線の容認論に結びつくだけの“非常に浅薄な”学問で、本来のケインズ経済学とは似て非なるもの」(大阪大学小野善康教授)、「硝煙が晴れたときに立ち現れる資本主義は、これまでの資本主義とは違ったものにならなければならない、というコンセンサスが生まれつつある」東京大学吉川洋教授)というものである。
 そうした新しい経済学の例としては、たとえば「ケインズが喝破した美人投票の理論などの状況は“戦略的補完性”としてゲーム理論の主要研究テーマの一つとなっており、この分析と不況の問題が密接につながっている」(帝京大学小島寛之准教授)との指摘が取り上げられる。そしてこれに繋げて、「強気の期待を持てば、期待が自己実現して日本が経済危機から救われる日も遠くない」(エール大学浜田宏一教授)、あるいは「医療を中心とした社会保障関係の支出充実が多くの人の不安を取り除き、前向きの期待を持たせる」(東京大学宇沢弘文名誉教授)などの方向性が示される。
 そう整理する中で、松井先生はこうした新しい経済学及びその主唱者に大きな期待を寄せるわけである。「新古典派経済学が直に政権と結びついたのに対して、新しい経済学は市場の欠陥を理論的に突き詰めていくという形で政策論からは大きく遊離し、どちらかといえば象牙の塔に閉じこもる道を歩んできた」とし、これらの新しい経済学を展開する経済学者は現場との距離を縮めなければならないとする。そうした上で「官僚機構に取り込まれた学者や似非エコノミストなどを見抜き、そうした人々の言説に耳を貸さないという良識を多くの人々が持つことが肝要となろう」と結ぶのである。
 このような論調に対して皆さんはどういった感慨をお持ちになるであろうか。私はすっかり頭が痛くなってしまった。新古典派及びその亜流と正統派ケインジアンの勢力争いとしか思えないのである。松井先生は正統派ケインジアンを“真の専門家”とするのであろうが、一体経済学において“真の専門家”など存在するものであろうか? 私はこうした経済学者の無邪気な経済学への信頼こそが問題の本質である考え、そうした無邪気な天真爛漫さが世間の苦笑を誘っている実情を憂える。
 そうした間違いは、そもそも経済学を自然科学と同じ並びの“科学”と考えることから始まっている。科学である限りにおいて真理は一つである。だから経済学者は社会科学における真理の発見などという壮大な“無駄な”作業に、優秀な頭脳を酷使することとなる。伊東光晴先生は『現代に生きるケインズ』の中で、イギリスでは学問を伝統的にリベラル・アーツ、自然科学、道徳科学の三つに分け、経済学は道徳科学とされるものであったと指摘される。したがって道徳科学の一翼を担う経済学は「事実に関する知識と、人為の制度と人間性への深い理解との微妙な混合物」であり、「自然科学のような、人間を離れて客観的に存在するものではない」ということになる。
 また堂目卓生アダム・スミス』においては、“見えざる手”ばかりがクローズアップされ、冷徹な自由放任主義者との印象を強くするアダム・スミスであるが、その実、人間の心に反しない市場構築の問題に取り組んでおり、決して人間の心の問題に無関心でなかったことが論証される。
 堂目先生によれば、スミスは、まず経済学を政策と理論の領域に分ける。次いで、理論の領域では、“諸事実”にもとづいて“諸理論”を導き、政策の領域では、何らかの“目標”を設定し、それを達成するための“手段”を選択し、最終的に具体的な“ルール”や“制度”を構築する。しかしながら「諸事実や諸理論は“である”で終わる命題の集まりにすぎないのに対して、目標は“べき”で終わる命題からなる」ところから、したがって「諸事実と諸理論だけで目標を設定することはできない」とされる。目標は「“立法者の規範原理”(政策当局が採用する善悪の判断基準)があってはじめて設定されうる」のである。
 伊東先生も堂目先生も異口同音に言われるのは、近代経済学のはじまりからそこには道徳判断の問題が内包(ビルト・イン)されていたわけであり、政策の処方箋も道徳判断を前提としなければならなかったということだ。新古典派の盛隆の下、近代経済学は何時しか明示的に価値判断を忌避するようになるが、経済学のはじまりにおいては何よりも価値判断が前提とされていたわけである。
 この場合スミスもケインズも、そうした道徳基準は多くがそれを認めうる最大公約的なものに落ち着くことが前提とされていたようである。しかしながら「一生懸命に努力した者全てが報われる」ように制度設計を図るとしたとして、こうした道徳基準はどのようなプロセスを踏めば合意出来るであろうか? これに対して、「公正・公平な競争の結果の優勝劣敗は認めうるべきである」という考えでの制度設計も可能なわけである。
 民主主義国家では、こうした道徳判断は最終的に選挙に委ねることとなるであろう。正しい正しくないは別にして、ここでは多数決の論理に従うことにならざるをえない。昨年来動きが顕著である市場原理主義の“急否定”も、これはまだ選挙の洗礼を受けているわけではないが、そうしたプロセスの一環と言うことが出来るであろう。昨今の市場原理主義の否定は結果論である。逆にみれば、今見直し急な“反”市場原理主義だってうまく行かなければ否定されてしまうということだ。
 結局道徳・道徳と言っても、詰まるところ拠って立つ立場の違いに依存せざるをえないわけである。立場の違いはすなわちイデオロギーの違いである。一昔前の近代経済学社会主義経済学の対立を思い起こせば、その理解は容易であろう。達観すれば、そうした対立が近代経済学内部で起きているということである。こう考えれば、松井先生が仰るように“真の専門家”など見抜くことは端から出来ない相談なのだ。
 それからこれは、道徳科学であることと必ずしも二律背反とはならないかもしれないが、議論が精緻化すればするほど、経済学から人間的関心が失われてしまう傾向が見られることも大きな問題である。ゲーム理論の分野で、1994年にジョン・ナッシュノーベル経済学賞を受賞したが、誤解を怖れずに言えば、彼は“生活不適合者”である。彼の興味はロジックであり、多分に人間的関心は薄い。そのナッシュがなぜノーベル賞なのであろうか? 道徳科学であることと照らし合わせるまでもなく、何か不自然である。
 ゲーム理論など、マニアには面白くて仕方がないのであろうが、如何せん“オタク”の学問である。協力ゲームでも非協力ゲームでも、ゼロ和ゲームでも非ゼロ和ゲームでも、所詮余分な要素を最大限削り落としたヴァーチャル・リァリティの世界である。そんなもので経済が分かったと思われては困る。
 松井先生に違和感を感じるのは、そんなことは先刻ご承知でありながら、小島准教授の言説を無定見に受け入れ、それを浜田先生や宇沢先生の議論に結び付けてしまう短絡さである。「景気は“気”から」(浜田教授)や「社会保障の安定化への寄与」(宇沢教授)を主唱するのにそんな迂遠な議論は必要ないであろう。こういうもって回った遠大な議論をするから経済学者は笑いものになるのである。「景気は“気”から」はある意味常識であるし、社会保障の有用性にゲーム理論をわざわざ援用する必要はない。
 分かった顔をして経済学批判をすることの多いこの頃であるが、私は経済学を全否定するつもりは毛頭ない。経済学の分析ツールは優れて有益性が高い。その分析ツールを活用しなければ、経済について語ることは出来ない。要はここで議論したように、経済学に過大な期待をしないことと、そのイデオロギー性を前提としなければならないということである。そのことを充分に理解しないから、徒に新古典派ケインジアンの対立を煽り、“真の専門家”探しなどの愚を犯し、折角の優秀な頭脳を不毛な議論で堂々巡りさせるのである。