強い大学とは何か?:経済・経営系に高学歴は要らない(下)

(続き)
 これから先は天に唾する話である。私は経済・経営系の学部・大学院は大幅に縮小すべきだと考えている。勿論、簿記・会計といった技術論は実業界において極めて有効な知識であり、それらの取扱いには注意を要そう。だが経営学総論、企業戦略論といった科目のように、会社に入っても一生そうした立場に立てない人が大半である現実を前にして、こうした学問を中心に学部・学科を構成することは本来的に無理があると考えて当然である。しかし大学というところでは、そんな当たり前のことが当たり前として認識されないのである。
 このようなあまり現実に機能しない学部・学科が実学として市民権を得ているのは、これはまさしく「セーの法則」に他ならない。戦後のわが国における文系学部は経済・経営系が異様に幅をきかし、その結果多くの研究者が創出された。そしてこれらの多量に生産された研究者が、自らの職域を拡大するためにさらに多くの経済学部・経営学部を作ることとなった。すなわち供給が自らの需要を作り、拡大生産過程を辿ったということであるが、このことは実際にそこから輩出される人材が、真に社会で求められているものであるか否かということとはまったく別次元の話である。はっきり言って経済・経営系の教育はそこを卒業しても、現実の社会では基本的に何も生かすことはできない。大きな無駄に親は多額の投資?をしてきたということだ。
 だからこそ私は原点に立ち返って、経済・経営系は大幅に戦線を縮小すべきだと思うのである。では経済・経営系の学部・学科を志向する人たちは大学に行かなくてもいいということあろうか。そうした考え方もあると思う。だが現状で私は必ずしもそこまでは考えていない。経営が常識だとすれば、健全な常識を醸成するのはリベラル“アーツ”の知識である。
 今の大学では、教養課程と専門課程をきっちり分けている大学は少ない。私が行っている大学もそうだが、1年次から専門科目のオンパレードである。初期のカーネギー工科大学産業経営大学院では、人類学、歴史学社会学、心理学といったリベラルアーツ諸科目の上に、財務、戦略、マーケティングといった専門科目の教育効果が認められることが明示的に意識されていた。
 詰めて言えば、経営はリベラル“アーツ”をベースとするトータル“アーツ”である。細切れにした経営諸科目をいくら学んでも立派な経営者にはなれない。豊かな教養に裏打ちされてこそ、世に恥ずかしくない経営者が創造される。経営に細切れの技術は意味をなさない。大事なのは物事の本質を見極める力である。そうした力の源は基本的に豊かなリベラル“アーツ”の知識であるわけだ。
 旧制高校を持っていた時代の大学生と、それが廃止されて以降の大学生とでは教養の厚みが明らかに違っている。私の学生時代は教養部が独立しており今とはまた状況が異なるが、私の世代と旧制の世代とでは基礎的教養が嫌というほど異なる(もしかしたら、これは私固有の問題なのかもしれないが…)。戦後日本が奇跡の復興を遂げたのも、これは決して経営技術の瑣末な問題などではない。
 戦後復興の立役者のことごとくが豊かな教養をバックボーンとして持っていたことが、その最大の秘密ではなかったのか? 私はそう疑っている。遡れば明治維新が大成功を収めたのも、当時の立役者がたとえ西洋科学の知識には乏しくとも、一方で和漢の豊かな教養に満ち溢れた人材が揃っていたからであろう。本質を理解する教養があれば、問題解決が図られることのこれは好例である。
 翻ってレベルはまったく違うが、私が現在大学で教える際の最大の悩みも学生に基本的な教養が不足していることである。簡単な例を挙げよう。経営史に触れる中でたとえば番頭・丁稚制度を取り上げたとする。しかし学生の大半はそもそも丁稚という言葉を聞いたことがない。番頭に至っては「風呂屋の“番台”か」と問われる始末である。
 これはほんの瑣末な例であるが、こうした知識の不足をいちいち補足していたのでは時間がいくらあっても堪らない。大学にもよるとは思うが、こんなことの繰り返しでは経済とか経営以前の問題であるわけだ。まったく木に竹を接ぐような毎日である。この例はリベラル“アーツ”の重要性を特にしては幼稚すぎるかもしれない。だが大体はそんなところであろう。基礎がないところにいくら知識を詰め込んでも砂上の楼閣であるわけだ。
 経済・経営系では本来教室では教えることができない知識を、「教えることができる」という虚構をの下に無理矢理中央突破を図っているのである。経済・経営系の教員はみな確信犯である。そうしたからくりに気がつけば、誰もが沢山の学生がそこで学ぶ必要はないと考えて当たり前であろう。これは極めて単純な話である。大学で教わらなければ、決して経営者になれないというものではないことを想起すれば、あれこれ議論するまでもなく一目瞭然である。ビル・ゲーツを見ればよい。
 なお冒頭引いた日経産業新聞のシリーズでは、諸星さんが唯一リベラル“アーツ”の重要性を強調しておられた。一方、宮内さんは自らがMBAホルダーということもあってか、わが国で文系大学院が遅れていることを指摘される。宮内さんは文系大学院で何を詰め込もうというのであろう? もしかしたらインナーサークル(MBA利益共同体)の作り方が拙いからということであるのかもしれない。こうしたところにも市場原理主義者の衣の陰の鎧がちらりということなであろうか? 当たり前のことであるが教育効果として何を期待し、その効果を挙げるために何を学ぶかは極めて大事なことである。
 しかしながら日経産業の特集もそうであるが昨今の議論は、いずれにしても教育を矮小化して考えすぎている。とりわけ高等教育における教育の原点は、豊かな教養を身につけることによって公平な人格を陶冶することである。そうした原点を忘れて即社会で役に立つものばかりが志向され、教員におカネを稼がせること(大学発ベンチャー等)にばかりに腐心するから肝心の教育効果が挙がらない。藤原正彦さんは「社会に直接役立たないことをやっている研究者を多く抱える国が、科学技術大国の必要条件である」と言われる。そうであるとすれば、わが国の未来は暗い。これは教育問題をを、「純粋培養された」学者先生と「目の前の実利にしか関心のない」企業家との狭いサークルでしか議論してこなかった咎めと言ってよい。