民主党が委ねられた期待を果たすために

 日経新聞≪やさしい経済学≫の10月5日から始まった今回のシリーズは、<「社会科学」で今を読み解く>である。現在は学習院大学井上寿一教授が、『国家ビジョンの再構築』をテーマに健筆を奮っておられる。
 ここでは昭和戦前期を、20年というわずかな時間に様々な国家ビジョンを巡る大規模な実験が行われた時代だとする。そして、そうした実験の俎上に乗せられた国家ビジョンとして、社会主義、議会主義、農本主義国家社会主義の4つが取り上げられる。こうした文脈の中で、以下では井上論文に従って歴史の実際をトレースしてみることとしよう。
 まず1928年2月20日に実施された第1回普通選挙においては、折から台頭著しい無産政党の勢力拡大が予め予想された。にも拘らず、結果はそうならなかった。多くの国民はその急進性への危惧から、もろ社会主義を選択するのではなく、漸進的な民主化の実現を期待して議会主義を選んだのである。つまり国民はここで、政友会・民政党の二大政党制を選択したということである。
 そうこうするうちに民政党政権下の1929年、世界恐慌が勃発し、翌年わが国は昭和恐慌に陥ってしまう。この時、ときの首相浜口雄幸は、対策として「金輸出の解禁」と「緊縮財政」という2つの政策を採用することによって、事態の乗り切りを図る。現在の定説では、浜口が採用した政策はますますデフレを深刻化させるものでしかなく、明らかな失政であったとされる。
 しかしながらそうした経済情勢にも拘らず、1930年の総選挙で民政党は圧勝する。井上教授は、この時多くの国民は民政党が打ち出した政策によって、「貧しくなるとしても、等しく貧しくなる社会の平準化を目指す政策」を支持したという解釈を示し、結果的に、国民は後ろ向き(縮小均衡下)の「格差解消策」を選択したのだとする。すなわち国民総貧乏下の経済的平等化が希求されたということである。
 結局、恐慌からの脱出はその後政権が政友会に移り、犬養毅首相・高橋是清蔵相のコンビの下、積極財政策が採用されるまで待たなければならないのであるが、そのことにはこれ以上触れない。
 井上教授はあからさまには、ここでの史例と現在の政治のあり様を結び付けようとはしていない。しかしながら歴史には、学ばなければならないことがあまりにも多いことは間違いない。
 翻って私は選挙前から民主党を支持して来たし、現在も支持する気持ちは変わらない。ある意味では、井上教授が指摘するように「貧しさの分かち合い」も覚悟している。そのことが新しい社会の建設に必ずや資すると確信しているからである。だが政権交代からようよう3ヶ月を経て、予想の範囲ではあるとしても、鳩山政権の千鳥足ぶりにはやはり苛立ちを覚えざるをえない。
 大方針なきマニフェストは烏合の衆を誘うものであり、その頑なな実施に絶対に拘泥すべきでないことについては、本欄で何度も主張したとおりである。「子ども手当」や「高速無料化」を今即実施することは無理である。鳩山さんは今になってマニフェストにも聖域はないとの言い方をし始めているが、なぜもっと前にそのことを言い出さなかったのであろうか。難しいことは、誰が見ても分かりきっていた話である。財源云々の前に、「子ども手当」には福祉の大方針、「高速無料化」には環境政策の大方針が議論されなければならなかったにも拘らず、それがされない中で見切り発車をしてしまうからこういうことになってしまうのだ。
 普天間もそうだ。沖縄県民の傷みへの惻隠は政治家として大事なことである。しかし県民の方々には申し訳ないが、現状沖縄に基地があることは現実であり、議論としてそのことは前提とされなければならない。この場合沖縄県民にこれからも負担をお願いするにしても、軽減化を図るにしても、その前に政権としての外交・防衛に関する大方針がないから、閣僚がてんでばらばらに勝手な意見を開陳するばかりで、内外に無用な混乱と不信を掻き立ててしまう。
 鳴り物入り事業仕分けもそうだ。仕分けの前提には判断基準としての大方針がまず示されなければならないのに、それがない中で無理矢理パフォーマンスに走るから、仕分けされる官僚のみならず、国民にも強いストレスが溜まってしまう。毛利衛さんの科学未来館やGXロケットを俎上に載せるのはいい。だがこれを単なるコスト・パフォーマンスで切ってしまうのでは如何にも詮方ない。これも政権として科学技術政策に関する大方針を持たないことがなせる宿痾である。
 事業仕分けに関して言えば、3兆円を切り出すというノルマが先に課せられるからこうしたことが起きてしまう。現在事業仕分けチームに出来ることは、無用な天下りの撲滅と彼らに支払う高額報酬のカットといったところにすぎない。官僚がその退職時の職位に応じて、退職後も厚い処遇が保証されることは絶対におかしい。そのことは、本音のところでは官僚の皆さんだって感じているはずである。それに絞り込んで実態を炙り出し、適宜適切な対応を図ることに終始すれば拍手喝采であったはずである。
 以前、民主党の先生がたは少年探偵団や小学校の級長さんを彷彿させてしまうと書いた。この気持ちは彼らが実際に政権を担当し始めてから、いっそう強くなっている。政治家にとって理想は大事である。だが政治の大事な仕事は理想と現実の折り合いをつけることである。仮に「子ども手当」「高速無料化」が今求められる最良の政策であったとしても、その実現には財源の確保、他の政策との整合性・調整等が必要となる。
 要は現状の民主党は八岐大蛇のように、一つの胴体からいくつもの首が伸びていることが最大の問題であるわけだ。勝手に動いてしゃべる首を草薙の剣で刈るのは勿論のこととして、首が一つになった時こそ、その知恵が真剣に問われることとなる。JAL再生タスクフォースや民間の必殺仕分け人が、どういう基準でどういったプロセスを経て選任されたかは知らない。だがこうした浅知恵に頼っている限り、民主党に明日はないと思うのは私だけであろうか。
 今回の総選挙において民主党を支持した国民は、戦前に民政党を選んだ答辞の国民と同じように、例え貧乏の均霑化を覚悟したのだとしても、永遠に貧乏では困るわけだ。それは一時のことで、先行きに曙光が見えなければ国民はついていかない。曙光に導く力はすなわち知恵である。
 民主党に犬養・高橋のような、胆力に優れた知恵者がいるのかいないのかということである。もっとも自民党にも犬養・高橋は見当たらないようである。これは民主党には幸いであるが、国民には当然のこと“大”不幸である。
 もしかしたら本当の知恵は既往の政・官界や財界、学界にはいないということであるのかもしれない。とすれば、草莽の臣を探し出さなければならないこととなる。民主党はJALに関しても事業仕分けに関しても、安易な人材を手短に登用しているようにしか見えない。百年の大計を図るのに小人は要らない。真の人材発掘に手間暇を惜しまない努力こそが、民主党に求められていると言ってよいのではなかろうか。