小室直樹さんの逝去に思う

 小室直樹さんが亡くなった。『ソビエト帝国の崩壊』『アメリカの逆襲』などがベストセラーとなり、知らない人が見ればそれらのタイトルから際物評論家の感を強くする面も多かった。しかし小室さんの実体は、政治学・経済学・宗教学といった特定の分野に止まらない社会科学研究の巨人であった。
 私自身、彼の著作は出版される度に貪り読んだ。そして強い啓発を必ず受けた。そうした小室さんであるが、大学に真っ当に職を得ることがなかったという点で学者としては不遇であった(本人の気持ちは知らないが…)。彼がその業績の割に学会で受け入られなかったのは、彼の言動や性格が奇抜すぎたことによるところが大きいと思われる。その点において、褌からフグリがはみ出していても一向に気にかけなかったと言われる博物学の天才南方熊楠と、奇矯という関心において印象がダブル。
 学者の仕事は真理を探求することに尽きる。しかし巷に溢れる学者先生とりわけ社会科学研究者は真理の探究には興味がない。少なくとも私にはそう見える。彼らの大半が精力を費やすのは論理の追求であって、決して心理の探求などではない。そして加えて保身。
 小室さんが生涯を通じて真理の探究にもてる力を注ぎ込んだことは間違いない。その一方で、小室さんが不遇であったのは学会に彼を受け入れるだけの度量がなかったからである。論理の追求に明け暮れて一向に現実とのマッチングを図ろうとしない多くの学者先生にとって、真理の探究に邁進する小室さんの存在は迷惑以外の何ものでもなかったであろう。
 社会科学研究は仮説のオンパレードであり、実証・証明まで漕ぎ着けるものを見つけることは、実にサハラ砂漠で一本の針を探すようなものである。要は研究成果が証明されるものはほとんど存在しないということである。したがって頭の良さを誇るためには論理展開の確かさが必要以上に要求されることとなる。またそれが充足された段階では、保身のための仲良しサークルが跋扈することとなる。
 小室さんはソビエトの崩壊を始めとして、数々の予言を世に示し的中させて来た。数多の学者先生が束になってかかっても到底太刀打ち出来ない業績である。それを見てしまえば、論理学の能力しか保持し得ない多くの学会主流の先生がたのジェラシー、あるいは無用の反発などを買ってしまうことは想像に難くない。加えて小室さんは保身の次元とはもっとも対極に位置しており、多分「正義は勝つ」との信念を強くお持ちであっただろうから、根回しなどにもとんと興味がなかった。
 小室直樹さんの逝去の報に接して考えたのは、わが国の風土が真理を語る碩学をなぜ重用出来ないのかということである。一方で私のような非学少才の目にも明らかなように、陳腐かつ虚しい言説を撒き散らし、そして害毒を垂れ流す学者先生は如何にも多いわけである。またそうした先生がたほど、マスコミで賞賛され政府政府機関においても多く登用される。
 翻って、真理の探究に邁進する人々に一般人の規範を求めてもそもそも無理なことが多いであろう。行儀の良さが真理の解明を保証しないのだとすれば、今、われわれに求められるのは異分子も許容する大きな寛容の心である。グローバリズム大義名分の下に、シンプルさと分かりやすさが優先されモノカルチャーが推進される。しかしそこからは本質的に真理が転げ落ちている可能性が大きい。転げ落ちた真理を拾い起こすためには、グローバリズムの思想は百害一利と言ってよい。
 そのことを忘れているから、時間と金をかけても一向に世の中は良い方向に向かわない。これは一人学界のみならず、政界も同じことであろう。昔の自民党への懐旧は別にしても、民主党には目利きが皆無である。だから正しいアドバイザーを求めることが出来ずに、少しの衝撃にもみっともないほど右往左往する。目利きとしての能力は常識と学識である。常識も学識も持たないミーちゃん、ハーちゃんが議員先生なんぞになってしまうから、世の中は逆回転しまう。ふぅ〜。