会社は赤字でも潰れない:MBA経営との決別

 大学で授業を持つ時学生や起業を目指す社会人に対して、「会社は赤字でも潰れない」ということを強調するようにしている。「会社は赤字でも潰れない」と言うと、ほとんどのヒトたちが一様に怪訝な顔をする。会社経営に土地勘がないからであろう。赤字でも会社が潰れないのは当たり前のことである。ただそこには大前提がある。カネが回り続けることである。赤字を垂れ流ししても元々蓄積が充分であったり、誰かが資金提供してくれれば会社は潰れることはない。非常に簡単な理屈である。
 これだけの説明でも何となく雰囲気だけは分かって貰えると思うが、大学で話をする時には少し格好をつけて、「財務三表」のメカニズムから説明することとしている。ご案内のように「財務三表」とは、損益計算書(PL)、貸借対照表(BS)、キャッシュフロー計算書(CS)の3つのことである。こうした三表の中でPLとBSは極めて一般的であり、あまり企業会計に関わりのないヒトにとっても多少の知識はあるものと思われる。PLでは売上や損益等、BSでは資産・負債等が示される。ただCSは言葉は聞いたことがあるかもしれないが、中小企業会計においてその作成が義務づけられていないことなどもあって、カラクリをある程度であっても理解しているヒトは少ないように思われる。しかしながら三表の中では実はこのCSがもっとも重要であることを主張したい。「企業が赤字でも潰れない」メカニズムはここに秘められているからである。
 CSも3つの部分から構成されている。「営業活動によるキャッシュフロー」「投資活動によるキャッシュフロー」「財務活動によるキャッシュフロー」がそれである。そして企業会計上の赤字は主に「営業活動」の結果に関連することが多いわけである。だが見られるように実際の企業会計にはその他の要素も大きく作用している。「投資活動」では有形固定資産投資や有価証券投資など、「財務活動」では長短借入金や株式発行などの、それそれぞれキャッシュイン・アウトが記録されることとなる。
 「投資活動」ではキャッシュアウト(赤字)がもっぱらである。加えて例えば「営業活動」なども赤字であったとしても、そうした赤字を「財務活動」で埋め合わせることさえ出来れば、CSは問題なく回ることとなる。やや持って回った説明となったかもしれないが、このことが「赤字でも会社は潰れない」理由である。それと忘れてならないのは手持ちの現金・預金等である。それまでに蓄積された手許流動性残高である。赤字の埋め合わせに預貯金を取り崩すのは家計では当たり前のことである。企業においても同じことである。
 整理すると「赤字でも企業を潰さない」ためには、手許流動性の取り崩しと借入・株式等による”外部資金”の取り入れを図らなければならないということである。実際外部資金の調達ということで言えば、資金不足対策としてこの株価低迷期にあっても、増資を表明する企業があるのはそうした理由による。
 翻って経団連会長の御手洗冨士夫さんに批判が集中しているのは、不況対策の優先順位が違っているからである。企業体の維持を図るための手段として人員削減を第一に実施するのは、プロの経営者のなせる業ではない。真っ先に実行しなければならないのは流動性の確保である。次いで「不要不急の一般経費削減」→「役員数の削減・役員報酬の削減」→「研究開発投資の凍結」→「従業員の報酬削減」→「従業員数の削減」とするのが正しい順であると、私は思う。
 わが国では所謂取締役の数は減ったが、一方で大抵の会社において執行役員の制度が作られており、トータルの役員数はそう減っているとは思えない。本当は役員なんて要らないと言ったらいい過ぎであろうか? 小なりと言えども会社役員であった経験からして、多分課長以下のヒエラルキーが残れば、どんな大会社でも運営継続は可能であると思う。役員にはそもそもその実務能力に疑問のあるヒトが多いし(勿論全てではない)、一方で日本の会社では役員ポストがは長らく論功行賞の具とされて来た。役員を不可欠の機関とは見ていないということであろう。米国においてもそのコスト・パフォーマンスから判断して、役員が一番厄介ものの存在であることは間違いない。リストラに関して一番の対象とされなければならないのは有象無象の役員である。
 さらに会社の礎は何と言っても一般従業員である。役員・役員と偉そうに言っても、機械ひとつ満足に動かすことが出来ないし、カネの勘定だって本当は充分には出来ていない。百年に一度の危機と認識するのなら、すぱっと役員を切ってみたらよい。相当の確信を持って言えるのだが、それでも会社は回る。役員が必要と思うのは役員自らだけである。
 また一般従業員はその数から言って、消費経済の中軸である。現在のように派遣さんを含めた一般従業員を真っ先に切るから、消費はますます停滞するのである。「合成の誤謬」は経済学のイロハである。経団連の会長会社であるキヤノンはそのことをなぜ理解しないないのであろうか? 私はカメラにしてもプリンターにしてもキヤノン・ファンであるが、それとは別にこうした会社に未来のあることが到底想像できなくなっている。
 わが国大企業の経営者は多くが有名大学出の秀才である。MBAホルダーも多い。そういう人々がなぜこの簡単な事実に満足な対応を図ることが出来ないのであろうか? 昭和金融恐慌に際して松下幸之助さんが社員の首切りをせずに、全社一丸となって凌いだ話は有名である。松下幸之助さんは小学卒である。小卒の松下さんに出来て、米国流近代経営を身に付けたMBAホルダーが出来ないのだとすれば、そんな学歴は無用の長物であろう。
 現代の経営を敢えてMBA経営と言おう。達観すればMBA経営は兎に角がむしゃらな利益志向の経営である。それも四半期という超短期で成果を出さなければならない、極めて無機質の要求を付き付ける。その大義名分は偏に株主のためであり、”短気”な投資家が多いところからそうなってしまう。真面目に経営をしている経営者から見れば、経営成果を四半期で評価することなど所詮無理な話であるし、それ以上に無駄である。それを罷り通らせるのがMBA経営である。MBA経営に従うから「会社は少しの赤字でも潰れてしまう」のである。市場からの退場宣言という、極めて論理的に不合理な天の声に従わざるを得なくなるわけである。
 考えてみれば、そうしたMBA経営の行き詰まりこそ、MBA経営と決別すべきよいチャンスであるはずだ。1970〜80年代に日本的経営が世界の瞠目を集めていたことを忘れてはならない。日本的経営は基本、人間尊重の経営である。欧州でも相対的にそうした経営思想が生きていた。それを根本から覆したのが、米国流の”拝金”経営である。それがMBA経営ということである。現下の災厄を齎した張本人としてMBA経営などもう要らない。少々飛躍しすぎるかもしれないが、MBA経営に決別する時、その時はじめて安倍さん待望の「美しい国」が実現すると言えるのではなかろうか? それは経済大国の再興などではなく、小さくてもぴりっと辛い、「世界から愛され尊敬される日本」の実現ということであるのだが…。