強い大学とは何か?:経済・経営系に高学歴は要らない(上)

 日経産業新聞で先週からシリーズ「強い大学」が連載されている。わが国の大学が今ひとつ機能していないという問題意識の下、大学のリエンジニアリングを図ることを目的とする企画と理解される。今週登場したのは、月曜がセブン&アイ・ホールディング会長兼最高経営責任者(CEO)の鈴木敏文さん、火曜が東京大学前学長の小宮山宏さん、水曜が桜美林大学教授の諸星裕さん、木曜が多摩大学名誉学長の野田一夫さん、金曜がオリックス会長の宮内義彦さんという方々であった。
 実業界代表と学会代表の布陣ということである。大学教育を論じるのであれば、宗教家芸術家、主婦、お役人などもっと広い立場での代表者の議論も必要であるはずだが、この企画自体大学教育を実業界で機能しなければならないものと位置づけているためであろうか? 狭い範囲での大学論となっている点はやや物足りない。もっとも日経産業が取り上げる大学論としてはこれも致し方ないのであろう。
 その昔、私の学生時代には「産学共同」は徹底的に忌避され、それを進める学者先生は反動と呼ばれゲバの対象となった。それが今では180度変化して、企業からおカネを引き出せないような先生はごくつぶし扱いされるような様になっている。すなわち実業界に貢献しない学問は虚学とされるということだ。
 経済の成長・発展には、大学(あるいは学問)の役割が大きいというのが定説化しており、疑いを持つものは少ない。中高卒よりは大学卒、学部卒よりは院卒が望ましいとされる。私のフィールドは文系であり、理系を論じる知識はない。ここでは、文系それも経済・経営の分野に的を絞って考えていることを開陳したい。
 私は只今現在はシンクタンクの一研究員であり、かたがた大学に非常勤の席を得ているが、元来はビジネスマンである。そうした立場で、経済・経営系の大学教育のあり方を考えると、この分野における猫も杓子も型の高学歴化には大いに疑問を感じざるをえない。教育を投資と考えれば、将来収益を確保するために学歴を重ねることは有効である。しかしながら教育を費用と考えれば、学歴を重ねることは費用を累積させるだけであり、なるべく短くした方が好ましい。
 まどろっこしい言い方をしているが、要は、受ける教育が差別的な将来収益を生み出す糧になるものであれば、少しでも高い学歴を身につけた方がよいし、そうでないのなら早めに切り上げた方が得策ということだ。この場合、「学歴」と「修学」はイコールではない。前者はただそこへ通って卒業することの価値であり、後者はそこへ通って所期の学問を身につけることの価値である。
 理念的には「学歴」と「修学」は一致しなければならないし、元来一致するものであるはずだ。しかしわが国の教育とりわけ大学教育においては長らく、「入るのに難しく、出るのは易しい」という形のシステムが採用されてきた。これは明らかにここで言ういわゆる「学歴」により価値を求めるという考え方である。すなわち東大卒であれば「修学」度は問わないということであるわけだ。
 ただこれはわが国特有の問題ではなく、カナダの経営学者ヘンリー・ミンツバーグ等が指摘するように、MBAホルダーにも同様の問題が生じているということである。アメリカの大企業が挙ってMBAホルダーを採用するのは、彼らが学んできたこと=「修学」を評価してのことではないのだという。すなわちハーバードやエールの卒業生なら、採用後にたとえ問題が生じても、人事部が「ハーバードの卒業生なのに…」という形で責任転嫁ができるからだというのである。わが国企業の人事部が、「東大卒なのに…」という言い訳と、これはまったく同じ構造であろう。
 翻ってここで大事なのは、天下のビジネススクールに対しても、企業はそこで学んだ知識には多くを期待していないということである。要は、経営を学校で教えることの限界性を企業が予めよく理解しているということだ。
 さらにMBAホルダーの本質的な弊害としては、採用時の優位性に止まるのならまだしも、真の経営者たる能力も持たないままに、排他的なインナーサークルを作り上げ、経営層を独占してしまうことが挙げられる。ビジネススクールは経営のプロを作るという幻想を世に拡散する中で、その実その本音は経営者から非MBAを排除すること。それに腐心するのがMBAの実態と言えばいいすぎであろうか? でもそんなものである。
 実際私もささやかながら大学で経営関係の科目をいくつか教えていて、隔靴掻痒。内心忸怩たる思いは募るばかりである。会社勤めばかりか社会経験に乏しい学生に、「経営」の何たるかを教えることができると広言して憚らない人物は、ピーター・ドラッカーなどの数人を除けば古今東西、天下広しと言えどもそう多くはいない。(以下次回)