経済学者はおかしいことに気づかないことがおかしい(上)

 最初に私の出自を明らかにしておくが、元来私はビジネスマンである。会社役員を経て、現在はシンクタンクの一研究員であり、かたがた非常勤で大学でも教えている。ただビジネスマンとはいっても、若い頃に有力シンクタンクエコノミストとしての訓練を受け、経済調査部門での仕事は15年に及ぶ。こうした経歴であるので、正直言ってそれぞれビジネスマンの世界、エコノミストの世界から見れば、どちらも中途半端で鵺(ヌエ)的存在ということであるかもしれない。
 ただいずれも中途半端であるかもしれないが、どちらもそれなりにこなしてきたということもいえるわけだ。本ブログもそうした私の経験に根拠を置いて書いている。実はこのことを私は非常に重要であると考えている。最近の大学はとりわけ経済・経営系の分野においてはいろいろな出身の方が多く、バラェティに富むようになっていることは事実である。しかし主流は未だ純粋培養された(社会経験がない)学者先生であることは間違いない。大学は畳の上の水練場と化しているわけで、またその水練の先生も畳の上でしか訓練を受けていないということなのだ。普通であればその奇妙さにすぐお気づきになるであろう。だが現実の大学では気づいているのかいないのか、そうした“奇妙”が未だ罷り通っているのである。
 私は基本的に学問を否定しているわけではない。学問は当然尊重する。しかしながら多様な学問体系における全てに社会経験が必要とは言わないが、学問を学ぶことにおいて私は社会経験が本質的に重要であると考えるのである。これは自然科学においてさえ例外ではない。例えば最近の医学教育において、偏差値の優秀さだけではなく人間的側面が問われるようになっていること一つをとっても、これは明らかであろう。哲学だって、数学だって、理論物理学だって、社会経験があればものの見え方が違ってくるはずである(もっとも世の中にはとんでもない天才がいることも事実であって、そうした人たちには社会経験など必要ないのかもしれない。その意味でここで述べていることは、私のような普通の研究者が対象と考えて頂いて結構である)。
 こうした脈絡の中で、経済・経営系の分野において社会経験なくして飯を食おうとすること自体が、私にはますます無謀な挑戦に感じられ理解不能となってしまうのである。そうした研究者が例えいくら立派な論文をお書きになっても、それは自分たちが勝手に考えるパラダイム(妄想の世界)の中のことであるにすぎないことが多い。経営学の世界でもミンツバーグ『MBAは会社を滅ぼす』では、ビジネススクールにおける一見実践的手法に見える事例研究法なども、所詮意図的に仕組まれた仮想空間(バーチャル・リアリティ)の世界での矮小化された議論にすぎないことが指摘され、そしてついにはビジネススクールの教育体系自体の有効性にまで疑問が投げかけられる。
 なお仮想空間の構築という時限で見れば経済学はもっと甚だしい。経済学ではその近代化(科学性の獲得)への過程において、自然科学の手法に倣って要素還元主義の考え方が大胆に採用された。要素還元主義というのは、玉葱の皮をめくっていくと必ず芯に到達し、そうして発見した芯が玉葱の実態を支配するという考え方である。経済学においてそうして発見された要素の例としては、経済主体として消費者・企業・政府、生産要素として資本・労働・土地・(情報)といったものがあげられる。要素としてこれらは有効性が高い。だがそうした要素が単独あるいは結合して経済事象を再現する時、多くの場合経済主体には合理的行動、生産要素には見えざる手が前提されることとなる。こうした前提が未だ充分に実証されていないとするならば、それを前提に構築される空間は仮想空間でしかない。アダム・スミスを経済学の祖とすれば彼が世に登場して以来300年、そうした仮想空間での議論を幾多の俊秀が飽きることなく繰り返してきたということだ。
 経済学なかんずくマクロ経済学では、そうした仮想空間の中で生産量・投資といった集計量間の“結果的関係性”に関心が集められる。結果的関係性というのは帰納法的探索の結果として、例えば投資の適正成長率などを△I/I=αδ(I:投資、α:貯蓄性向、δ:限界資本係数)と記述するような類のことである。ここで示されるのは、貯蓄性向に限界資本係数を掛けたものが投資の適正成長率であるということである。飽くまでも探索の結果として要素間における関係性を発見したということであり、これは決して「α×δが投資の適正成長率を導く」ことのメカニズムを示すものではない。
 そうした意味でマクロ経済学の理論は、帰納法的探索の結果として「一定の関係性を導き出した」ということにすぎず、経済理論として肌理の細かさを欠くという批判は免れがたい。単純化すればこういったマクロ経済学の限界性・不充分性を埋め合わせるために、ミクロ経済学が登場するのである。ミクロ経済学は消費者・企業といった個々の経済主体に着目し、主に価格分析を議論の中心に据える中で発展してきた。そしてミクロ分析ではマクロ分析と異なり、各経済主体のパフォーマンスが注目される。一定の与件が与えられ中で消費者なら消費者、家計なら家計が、どういう行動を示すかということが分析の対象になるということだ。
 マクロ理論とはまた異なるアプローチによって展開されるミクロ理論であるが、ここにおいても、経済主体の合理的行動あるいは見えざる手による均衡といった大前提は前提として基本的に生かされている。すなわちマクロ、ミクロと分析のアプローチを変えても、依然旧来からの足枷に囚われる要素が大きいということである。
 これに対して最近では行動経済学などの新しい分野が脚光を浴び始めている。マクロ分析からミクロ分析へと進む段階で分析対象がより細分化され、経済主体の行動に着目されるようになったわけであるが、それでもやはり現実との乖離は埋められない。こうした克服のために行動経済学などが登場するわけである。消費者とか企業といった相対的にミクロ分析の対象ではあるが、それでもなお集計概念に止まる主体について、個人の行動レベルにまで切り込んで分析を進めるのがこのアプローチである。
 行動経済学の中には、ゲーム理論あるいは神経経済学(ニューロ・エコノミックス)などが含まれる。ゲーム理論は兎も角、神経経済学はあまり一般的ではないかもしれない。これはfMRIなどの機器を活用して、経済的な意思決定に際して脳のどの部位が関係するかということを見極める中で、個人の経済行動を分析し法則性を探究する研究手法である。したがってこの分野では脳科学とのコラボが必須となる。ここでは、例えば人間が必ずしも合理的な経済行動をとらない存在であるとして、一定の刺激に対して脳がそのどの部位で反応し、どのようなプロセスを経て意思決定するかということなどが追究される。
 またさらには、これまでの伝統的な経済学の枠組みから離れた分析手法を追求するものとして、比較制度分析のアプローチがあげられる。これは、これまでの経済理論(マクロ・ミクロの両方)に関するブラックボックス性(投資の適正成長率の議論のような)の積極的な解消を狙ったもので、分析ツールとしては非対称情報、ゲーム、契約等々の諸理論が機軸に据えられる。(続く)