大トヨタの凋落:輸出依存型経済の終焉

 トヨタの2009年3月期連結営業損益は1500億円の赤字になるということだ。これは戦後初のことである。こうした赤字の予想に対してトヨタの幹部連は「想像を超えた急降下」と口を揃える。確かにそうであるかもしれない。だが幹部がそう口を揃えたとしても彼らの責任は免れ得ない。いずれにしても備えの出来ていなかった罪は問われなければならないからだ。
 私は今日の事態が予想出来なかったというのは詭弁であると考える。第一に、米国市場へこの期におよんで過度な依存をしていたこと、第二に、エネルギー価格の暴騰を見てしまったこと、第三に、自動車産業はいくらエコカーを開発しても環境破壊産業であること、第四に、短期買い替え依存型のビジネスモデルが通用しなくなっていること、第五に、若者を中心に車保有がステータスでなくなっていること、等々要因を挙げれば切りがない。
 門外漢の私でもこれだけ要因を挙げられるのだから、内部の幹部連がそうしたチェンジに気づいていなかったはずはない。もし本当に寝耳に水の出来事であったのだとしたら、それは怠慢以外の何ものでもないであろう。大トヨタの幹部も高が知れているということだ。相当程度のヒトが早い段階から何となくであっても気づいていたはずのことである。
 それと加えてここで指摘したいのは、官民挙げての懲りない輸出依存体質である。明治維新以来輸出振興は国是であり続けた。だから我々国民にも輸出が大事、輸出企業は偉いという刷り込みがすっかり出来てしまった。だがよく考えて欲しい。輸出はそんに偉いのであろうか?
 明治期に輸出が振興されたのは、欲しいものを海外から買えばすぐに国際収支の天井にぶつかってしまったからである。つまり輸出は本来的に輸入を償うための手段であるはずのものである。だが何時の間にかそれが一人歩きしてしまい、輸出が大事、輸出企業は偉いという観念が定着してしまったわけだ。
 翻って少々技術的な話になるが、GDPは「内需+輸出−輸入」と表わされる。したがって定義的に輸出が増えればGDPの規模は大きくなる。しかしながら輸出は国内では費消出来ない部分である。逆に輸入は国内で費消出来る部分である。こうしたところから国内総需要概念が定義され、「国内需要+輸入−輸出」と示される。
 こうした国内総需要が大きくなればなるほど国民の経済厚生は高まる。輸入と輸出の差額が拡大すればするほど、国民は自らが生産するもの以上に商品・サービスを費消することが可能となるからだ。もっともこんな虫のいい話が永久に続くものでないことは言うまでもない。前提として輸入決済の問題が横たわる。米国はペーパーダラーを撒き散らしつつこうした構造を享受して来た。これは基軸通貨たるドルを保有する米国の特権があってこそ可能なものである。他の国でこれを続ければやがて国家破産に陥ってしまう。
 さらに純輸出(輸出−輸入)が膨らめば膨らむほどGDPが増加し、我々の懐は潤う。これがうまく国内需要の喚起に繋がれば景気は好循環に向かう。だがこの部分が貯蓄に回さればそうは行かなくなる。こうした場合外貨資産の蓄積が進むが、一方で常に外貨資産には自国通貨高(円高)による目減りの可能性が付き纏う。折角輸出で稼いでも為替変動によってその価値が低まってしまうということである。純輸出が拡大すればするほど自国通貨は一般に高くなる傾向を持つところから、溜め込んだ外貨資産は目減りするというのが通常であるわけだ。
 とまれここで整理すると、輸出は言われるほど望ましいものではなく、したがって輸出企業もそんなに偉いものではないことがお分かり頂けよう。輸出振興は極端に国際収支の天井が低かった時代の産物で、純輸出は基本的にバランスさせるのが正しい姿である。ただ現実的には決済手段の枯渇懸念があるために、純輸出は短期的に変動に耐え得る程度の黒字で推移するのが望ましいとされる。
 成熟した経済大国が何時までも、輸出に依存し続けることが出来ないことは常識である。その非常識を最近まで平然とやって来たのがわが国である。そんな非常識が何時までも続くことを前提に経済運営を図って来た結果がこの体たらくである。こんな分かり切った話の中で、政も財も官もみんな青天の霹靂と言うのであればみんな職務怠慢である。即刻禄を返上されたい。そしてその原資を持ってワークシェアリングに踏み込むべきである。この国の最大の欠陥は罪びとが罪を自覚しないことである。また災い転じてということであれば、この窮地は大きな構造転換のチャンスと言ってもよいのではなかろうか?