偏った研究手法は不幸のもと−帰納法と演繹法の議論から

 ものごとを議論する方法として帰納法演繹法の二つがあることは言うまでもない。ただ両者ともにそれぞれ長所・短所があり、あまりにも一方に偏りすぎた議論は真実を追究するうえで危険でもあるわけだ。このことはとりわけ社会科学の研究者であれば常識である。
 ところが最近の経済学分野における研究を見ていると、演繹的方法に依存する部分が極めて多くなっている。このことの危険性と問題点を書く。
 帰納法というのは、「特定の事象を収集し、それを分析・整理することによって、一定の法則・真実を導き出す」方法である。「お菓子である羊羹は甘い。お菓子であるチョコレートは甘い。お菓子であるカステラは甘い」というような事象を集める中で、議論の結果として「お菓子は甘い」といった結論を下すことの方法である。
 演繹法というのは、「一定の法則を前提として、観測される事象がその法則に従うものであるかを検証し結論を得る」方法である。お菓子続きで言えば、「お菓子は甘い」という法則を正しいこととして、「しょっぱい煎餅はお菓子ではない」といった判断を行なうことの方法である。
 これは敢えてそうした例を置いたのであるが、一見して両者ともに結論のおかしいことはお気づきになろう。帰納法では「甘いお菓子に偏ったサンプルを集めすぎて、そこから軽々な判断を下してしまった」可能性を否定出来ないし、演繹法では「そうした誤っているかもしれない法則に従って誤った判断を下してしまった」可能性を否定出来ない。
 こうした簡単な例であれば、百人が百人ともに「それはおかしい」と言えるであろう。しかしそれが学問の皮を被るとそうは言えなくなってしまう場合が多い。
 最近の経済学分野における議論は「多くの文献(先行研究)を渉猟し、そこから仮説を導き出し、それを主として統計的分析に従って検証し、結論に至る」という形が多くなっている。これは自然科学的研究手法に近く、相対的に演繹的研究手法と言ってよいであろう。
 帰納法と比べて演繹法はよりロジカルである。思考プロセスも簡素である。その限りで、より客観性を好む研究者がこの方法に傾くことは理解出来る。
 一方伝統的な経済学研究の手法としては帰納法の世界もあったわけだ。帰納法は確かに論理展開の厳密性が保証されず、研究者の感性に依存することも多く、その分非科学的との謗りを免れがたい。
 演繹法ではそもそも仮説の俎上に乗せられなければ、どんな真実、どんな偉大な発見であっても日の目を見ることはない。重要な情報が洩れてしまう可能性があるということである。昨今のように議論が研ぎ澄まされた刃の上で交わされるような状況下では、とりわけそうしたことが言えよう。
 これに対して帰納法の議論では、曖昧さの中に「不要とされる」情報も温存される可能性が残るわけである。例えが適当でないかもしれないが、錆付き刃毀れした刃の上での議論の方が不純物分が残る分、失われる情報が少ないということだ。
 このコンテクストで市場原理主義について考えて見よう。平たく言うと演繹法の世界では、誰か偉い先生が「市場は素晴らしい」と言い出せば、その範疇での議論にしか発展しようがないということである。市場が素晴らしいことの理屈付けは周到であり、この土俵に乗ってしまえば反論は難しい。
 だがよく考えて頂きたい。社会科学の世界では多分絶対的な真理はないはずである。自然科学の世界でもユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へといったパラダイムチェンジはあったかもしれないが、基本は事実発見の積み重ねが科学を進化させて来た。
 社会科学の世界は如何であろう? P.A.サミュエルソンやM.フリードマンノーベル賞受賞者の業績が未来永劫に行き続けるものであろうか? 全て否定出来ないが、多分そうはならないであろう。
 言いたいのは社会科学の研究成果は発表された時には新鮮であっても、永久に輝き続けるものではないということである。絶対の真実はないということだ。このことはK.マルクスやR.ヒルファーディングだって、その時代にノーベル賞があれば受賞していたかもしれない。このことを想起して頂ければこれ以上の議論は要しまい。
 ちょっと乱暴な結論かもしれないが、社会科学には積み重ねは無理である。同じことを論じ、既に結論が出てしまっていることでもその都度原点に立ち返った議論が有効である。だから「市場が絶対」という結論から議論を始めるのではなく、「市場への疑問」から始める議論も重要だということである。これは帰納法下の議論も必要だということである。
 自然科学と違って社会科学では実験が不可能である。実験即実行である。新薬の認可にあれだけ臆病な政府が、市場原理主義などといった壮大な実験になぜ軽々と乗ってしまうのであろうか? 薬害は無論恐い。しかしながら本当は偏った経済政策の方がもっと恐いのではないのか? いずれにしてもそのことの議論が少なすぎる。
 今日は昨今経済学界において演繹法的議論が席巻し、その分帰納法的議論が横っちょに置かれていることを見て来た。本来的に両法はコインの裏表の関係にあるもので、どちらかに偏っては、とりわけ社会科学研究において不都合をもたらす。帰納法演繹法両面からの議論が必要であることを指摘した。