リーマンの破綻はアメリカン・スタンダード終焉の第二章

世界の会計基準が国際(欧州)基準に統一されつつあるが、これをアメリカン・スタンダード終焉の第一章とすれば、今回のリーマン・ブラザースの破綻はその第二章である。
1980年代の米国経済は財政と貿易の双子の赤字に呻吟し、一方で製造業をはじめとする産業の空洞化が著しく進展した、そんな時代であった。こんな経済環境では無論金融機関もボロボロで、バンカメ等の世界に冠たる銀行も危機に瀕していた。今回の金融危機は何時か来た道なのである。
ではなぜ米国の金融機関は持ちこたえ復活したのであろうか? その最大要因はグローバル・スタンダードという名を借りたアメリカン・スタンダードの押し付けである。
たとえばBIS(国際決済銀行)の自己資本比率規制。失地回復を狙った米英連合が、自己資本比率の低いわが国金融機関をあからさまに狙いうちにした規制策であった。これだけが要因ではないがこの規制を受け入れることによって、わが世の春を謳歌していたわが国の金融機関は凋落の一途を辿ることとなった。
またこの間金融工学を駆使した金融商品の開発が米国を中心に進められ、わが国金融機関は大きく遅れをとることとなってしまった。サブプライム・ローンなどもその産物である。
ここでは金融工学を論ずる暇がないので詳しくは述べないが、これが金融分野にギャンブルを持ち込んだことは間違いない。金融工学は悪魔の知恵なのである。
かって米国には銀行の州際業務を禁止したマクファーデン法と、銀行の証券業務を禁止したグラス・スティーガル法があった。こうした法律が作られたのは、銀行は放っておくと際限なく自己肥大化して産業・国民を支配し、世の中に害毒を流すものであると認識したうえで、その弊害を予め除去することが目的であった。
米国においては第二次大戦以上に、1929年の恐慌が国民のトラウマになって来たという。日本人の平和憲法同様の思いがこの二つの法律には込められていた。米金融機関復活の裏にはこうした思いが反故にされたのだということを忘れてはならない。
金融機関は皆が欲しがり、何にでも化けえるカネという商品を扱っている。金融工学に限らず少し知恵を巡らせば金融機関が儲けることは簡単である。こうした金融の悪魔性を深く理解していた先人は悪魔性が鎌首をもたげないように、種々の手枷足枷を金融機関に課して来た。
カソリックイスラム教が利子を長らく認めて来なかったのは、そうした厳しい現実を踏まえた背景があったからだ。それを米政府は自国経済復活の起爆剤とすべくいとも簡単に規制緩和し、金融機関に自由度を与え、野放しにしてしまったのだ。この罪の深さは百罰に値する。
リーマンの破綻、AIGの危機も起こるべくして起きた事態である。そうした意味では別段驚くべきことではないが、如何せん影響が大きすぎる。米国民がもっとも恐れる大恐慌がやって来ても少しもおかしくない。金融工学商品の商品化はパンドラの箱を開けてしまったということなのだ。
それもこれも欲呆け人間が多すぎるから。一生使えきれないほどのカネを手にしてまだ欲しいがる輩が存在し、それを社会がヒーローとして奉る雰囲気が存在する限り、今の事態を乗り越えてもまた同じことが生じるのであろう。人間の性とは言え、悲しい現実である。
それにして金融工学という悪魔の研究にノーベル賞を与えるというのは、どういうことであろうか? ノーベル賞はそもそも人々の安穏を期するために設けられた賞ではないのか? こうした研究に賞が与えられるのであればノーベル賞なんか要らない。
それと本件に関して、米政府が独占・寡占を事実上認めてしまっていることも大変罪が重い。これはわが国政府も同様である。
再度マクファーデン法とグラス・スティーガル法に戻ると、両法は全米に展開する巨大金融コングロマリットが出現することを恐れていたと言える。両法の消滅とともに、正しく米全土ならず世界に君臨する超巨大金融コングロマリットが生成され、そしてそれが自ら破綻してしまったのである。
AIGの救済に邦貨で9兆円の血税が投入されると聞く。よく考えて頂きたい。AIGがこんなに巨大企業でなければ、巨額の血税を費やすことはなかったであろうし、もっと小振りで破綻の影響が大きくなければ、潰してしまってもよかったはずである。
"Too Big To Fail”ということであれば金融機関はますます巨大化の道を選択し、モラル・ハザードの問題に直面することとなる。
「競争の結果として巨大企業の出現を認める」ということを百歩譲って認めたとしても、その競争自体が不公平であれば何をか況やである。米であればFTC、わが国であれば公取委、独占取締り部局の今こそ出番であると思うのだが…。
いずれにしても一連の米金融機関の破綻は、アメリカン・スタンダード終焉の第二章であることは間違いない。ピンボケの総裁選など早く手仕舞いして、為政者は真剣にこの国の行く末を熟慮・熟考し、明日への希望を切り拓いて欲しいものである。