グローバル・スタンダードを考える:イコール・フッティングの罪

 かって米国との間で貿易や金融に関して摩擦が生じるたびに、必ずイコール・フッティングということが言われた。達観すればイコール・フッティングというのは、不公平感を払拭するために兎にも角にも「競争条件を同じにせよ」という主張である。
 イコール・フッティングという言葉はそれだけ聞くと、公正かつ正義の実現手段というように感じられる。だがそれが唱えられた背景には、日米間における拡大する一方の貿易摩擦と金融摩擦の存在があった。このことを見逃してはいけない。詰めて言えばこれは、創意工夫を怠らず、寝る間も惜しんで良い製品を一生懸命作っている人に対して、普段からあまり働かず、借金漬けで粗悪な製品しか作ることの出来ない人が、「お前が一生懸命働くから俺は貧乏になってしまう。俺みたいにあんまり働くな。そうすれば俺もお前と対等に戦えるはずだ」と言っているのと同じことなのである。
 グローバルスタンダードなども、イコール・フッティングをオブラートに包んで一層口当たりを良くしたものである。例えばBISの自己資本比率規制は、わが国金融機関の攻勢に大きな危機を感じた米国が、BISの枠組みを借りてシステミック・リスクの回避を大義名分として、その実自己資本比率の低いわが国を狙い撃ちにすることによって、プレゼンスの拡大阻止を図ったものと言ってよい。
 自己資本比率を国際間で同条件にすることは、正しくイコール・フッティングである。イコール・フッティングが浸透すれば、それがグローバルスタンダードとなる。このグローバルスタンダードはシステミック・リスクを事前に回避する装置である。したがって自己資本比率は全地球的に正義となる。そうした理屈である。
 市場原理主義も基本的に同様である。大義名分の陰には常に刀と鎧を覗かせている。小泉さんや竹中さんを売国奴扱いする向きは、そうしたカラクリを見抜いてのことであろう。政治が国民の生命・財産を守る機構であるとするならば、やはり無前提な米国への迎合は拙かった。
 イコール・フッティングを旗印に、わが国へ金融の自由化・国際化を迫った米国の意図は、わが国金融機関の無力化を図りわが国市場を自家薬籠中のものとすることであった。だが自由化・国際化と言っても、日本と米国ではまるっきり求めるところが異なるわけである。なぜならばわが国においては未だ資金余剰国である一方で、双子の赤字に悩む米国は一貫して資金不足国であるからだ。
 自由化・国際化の過程を通じて期待されるのは、わが国では資金運用、米国では資金調達が主体となる。このことを横っちょにおいて、自己資本比率を論じるのはやはりおかしい。資本輸出国と資本輸入国で自己資本比率が同じでよいということにはならないはずである。資金余剰国では基本的に金融機関には黙っていてもカネが流れ込む。他方資金不足国では黙っていては資金調達が図られずに、能動的なアクションが必要である。そのために数々の仕掛けが企てられることとなる。それが米国発の証券化商品ということであろう。
 マクロ的に考えて、前者では資金が先に立つわけであるから、人為的に自己資本比率で縛ることの意義は小さい。他方後者では自己資本比率が先に立つわけであり、これによって資金のコントロールが図られるところから、自己資本比率の意義は大きいと言える。
 いずれにしてもイコール・フッティングの限界は、完全なイコール・フッティングなど存在しないということである。虚構あるいはトリックであることが歴然としているにも拘らず、全ての問題解決手段であるかのように標榜されることである。その思想がアプリオリグローバル・スタンダードの理屈に持ち込まれることによって、世界が攪乱されてしまった。そうした意味で、イコール・フッティングの土俵に乗ってしまったことの罪は大きいと言わざるを得ないわけだ。