堺屋太一さんのご託宣:全治3年は本当ですか?

 一昨日の8日は、『早稲田大学グローバルイノベーションフォーラム2008』という御大層なセミナーに参加した。お目当ては堺屋太一さん。「日本と企業の進路」という講演が聞きたかったのだ。堺屋さんは言わずと知れた経済論壇の碩学である。官僚として大阪万博を成功に導き、「団塊の世代」「油断」などを著す中で世の中の構造変化をいち早く捉え、その後の指針を示し続けて来た。
 今堺屋さんが主張しているのは「知価革命」。「規格大量生産社会」の終焉の次には「知価社会」がやって来るというのだ。規格大量生産社会では”モノ”の価値が重視されたのに対して、知価社会では”チエ”が重視されることとなる。
 規格大量生産社会では、例えばカラーテレビ、クーラー、カー(車)など、皆が持っているものを持つことがステータスであった。ところがこれから始まる知価社会では、より個性が重視される。消費者は規格品としての満足ではなく、自分なりの満足を追求することとなる。したがって企業は、そうした嗜好の変化に対応しなければならないこととなる。
 わが国はこれまで規格大量生産を大得意として、世界のGNP大国に躍り出た。堺屋さんはそうした過去の栄光に縋ってばかりいては、次代への対応が出来ないと警鐘を鳴らすのだ。技術の粋を尽くしたと胸を張る日本製の携帯がなぜノキアモトローラーの後塵を拝するのであろうか? 知価社会時代のモノ作りに対応できていないから、こうした無様な姿となると堺屋さんは言うのである。
 一方このセミナーでは堺屋さんは米国の金融危機に触れて、全治3年と診断した。もっともこれには条件があって、堺屋さんが経企庁長官であった1990年代の後半にわが国でとられた政策が採用されなければならないということだ。この時の政策の柱は概ね、第一に、金融機関への公的資金注入、第二に、不良債権の早期処理、第三が、保証協会保証枠拡大などのセーフティーネットの強化というものであった。
 堺屋さんはこの時の経験から、米経済も全治3年と診断されたのであろう。問題はこうしたわが国の経験を、米政府がどこまで真剣に学ぶかということである。また当時は日本が「一人負け」しているだけで、米国も欧州も中国もロシアもその他もことごとく元気であった。そうした意味で日本の宿痾は単なる内臓疾患であって、只管自分だけの治療に専念すればよかった。
 しかし今回は日本の経験とは明らかに異なる。全世界に米国発の病原菌がばら撒かれ、それにあっと言う間に皆が感染している状況である。それも特効薬はない。現代の黒死病である。
 堺屋さんは自らが経企庁長官として旗振りした時に採用した政策が効を奏して、わが国経済は曲がりなりにも回復に向かったと評価される。確かに貸し渋りはなくなり、金融機能は正常化した。その点は認めよう。
 ただ私は経済政策は「鰯の頭」みたいなものだと思っている。信心すれば何でも有り難い。その辺の石っころだって、怪しげな教祖様だって、皆有り難い。経済政策も有り難いから効果があがるのである。
 さらに採用された政策が本当に効果を表わしたかどうかは実証のしようがない。それ以前に採用された政策がタイムラグを置いて、遅まきながら効果を現したのかもしれない。経済に影響する要因の特定は、気象に与える要因を特定化するのと同じぐらい難しい。世界最高のスーパー・コンピュータを使っても、天気予報がピタピタとは当たらないことと同じである。
 今回も「鰯の頭」を如何に信心させるかということが、政策の焦点となる。加えてそのことを達観したうえで、速やかに世界の叡智を集めて、真に次代を託し得る制度設計に取り組むことが必要となる。
 近代経済学は価値判断を捨てて発展した学問である。だが全地球的に最低限合意出来る正義や理念・理想はあるはずである。そのことを視野に入れた発想をとらなければ21世紀は本当に暗黒の世紀となってしまう。