歴史小説と歴史教育:<蒼穹の昴>シリーズを読んで

 浅田次郎蒼穹の昴>シリーズの第三部『中原の虹』が文庫本で発刊されたのを切っ掛けに、第一部『蒼穹の昴』、第二部『珍妃の井戸』を改めて読み返し、同シリーズを一気通貫で読んでみた。浅田作品は<きんぴか>シリーズや<プリズンホテル>シリーズの軽妙なタッチのものから、『鉄道員』『壬生義士伝』のややシリアスなものまでほとんど全て読んでおり、どれも楽しく読ませて頂いている。ファンである。
 <蒼穹の昴>シリーズは、中国清朝末期に題材を取った歴史小説である。歴史小説と似たようなジャンルに時代小説がある。どちらも歴史をモチーフにしているが、歴史小説は、主要登場人物が歴史上実在した人物で、かつ主要なストーリーは史実に沿ったものでなければならない。一方時代小説は、過去の時代を背景としてストーリーが展開されればよく、登場人物や史実には拘らなくてよい。要は創作における想像力の多寡の違いと言ってよいであろう。
 この浅田作品は、主要登場人物は実在の人物であり、基本的なストーリーは史実に沿ったものである。したがってそうした定義に従っても、これは立派な歴史小説であるということである。理屈っぽく歴史小説か時代小説かということに拘るのは、一般読者はそれをエンターテイメントとして楽しむ場合、ほとんど両者の違いを意識しない場合が多いからだ。作者の想像を史実として受け止めたしまう場合が少なからず多いということだ。
 司馬遼太郎作品が典型的であるが、例えば『竜馬がゆく』で描かれる坂本竜馬は彼の行動こそ史実に沿ったものであったとしても、彼の心の襞までは史料では窺い知ることは出来ない。『竜馬がゆく』を読んだあとに、読者は一定の坂本竜馬像を心に描くこととなるであろうが、しかしながらその竜馬像は決して「普遍」の竜馬像ではない。それは飽くまでも司馬遼太郎という作家のフィルターを潜ったものであり、達観すればその竜馬像は司馬遼太郎の「創作」であるということだ。
 浅田作品では、とりわけ国外で悪鬼のごとき存在として話題に上ることの多い西太后について、実は老仏爺の尊称どおりに四億の民草のために身命を賭し、敢えて自ら清朝の幕引きを演出した救国のヒーロインとして描かれる。一般の悪印象から見れば、こうした西太后に関する浅田説は違和感を持って受け止められることが多いであろう。だがもしかしたら100%浅田説に与することは出来ないにしても、一定の割合で真実が発掘されているのかもしれない。これが歴史小説の妙であり、ここに作家の「創造」力の力量が問われるわけである。
 小説を只管エンターテイメントとして楽しむ一般の読者には、それが作家の想像力であろうがなかろうが、その作家の「創造」が竜馬あるいは西太后のプロフィールとなって刷り込みがされることともなる。歴史小説の危険性である。このことを最近、某大学ビジネススクールの科長先生と議論した。その先生は生前の司馬遼太郎さんに会っているということだが、彼は歴史小説は「歴史」の入門書として意義が大きいという立場である。
 なおこうした考え方は彼だけでなく、産・学・官・政界の代表的面々においても同様に考える人が多いようである。随分以前になるが月刊『文藝春秋』で、「私が影響を受けた歴史書」というアンケート調査の結果が掲載されたことがある。その調査では、圧倒的に司馬遼太郎さんと塩野七生さんの作品が上げられていた。歴史小説を「歴史」入門書として捉えれば、それも歴史書の範疇に入れてよいのかもしれない。
 しかしながら本当にそういうことでよいのだろうか。ここでまたまた理屈っぽくなるが、歴史書とは何かということにも見てみよう。歴史書というのは、既存の史料を収集・比較・批判し、一定の「科学」的知見に基づく基準を適用した上で、その結果取捨選択されたものを記したものということである。この点塩野さんは明快で、「自分の作品は作家としての想像力が生命線となっており、飽くまでも歴史小説である」と表明している。明らかに歴史小説と歴史書の間には一線が画されるべきであるということなのだ。
 私がこんなことを考えているのは、またぞろ中国における反日デモが激化していることと関係する。要するに歴史に浅田史観、司馬史観、塩野史観があり、それぞれに一利があるとするならば、極端に言えば論者の数だけ歴史があるということだ。テレビで見た限りであるが、中国のデモ参加者へのインタビューでは、相変わらず一人の青年が「南京虐殺が許せない。それを誤りもせずに領土問題を主張するのは我慢出来ない」との発言をしていた。
 彼がどれほどの歴史認識を持っているのかは知らない。だがそれが真実であってもなくても、中国においては歴史に名を借りた徹底的な反日教育が行われて来たことだけは間違いないであろう。歴史教育は一種の思想統一の道具となりえるだけに、その扱いは慎重の上に慎重が要される。そう考えると、歴史小説を「歴史」入門書と安易に捉まえることだけは絶対に避けなければならないことがお分かり頂けるであろう。
 前述した『文藝春秋』のアンケートに答えた回答者は、わが国の産・学・官・政を代表する各界のエリートである。そうしたエリートがその程度の歴史認識しか持たないから、中国に敵わないのである。このことは対中国のみならず、対ロシア、対北朝鮮などわが国との関係性においてトラブルを抱える国々に対する対処法においても同じことである。
 彼のイタリアにおいても義務教育の間徹底した歴史教育がなされると聞く。自らの国の正当性を確認する手段は歴史でしかないとするならば、真っ当な歴史教育を忌避する国情においてその国は諸外国との抗争において戦わずして負けたも同然である。わが国は戦後、勿論内的要因は多々あるとしても、基本的に数々の僥倖に恵まれて経済大国への道をひた走った。今われわれは失われた20年という真っ暗闇の中に閉ざされもがきにもがいている。
 これに対して、少子高齢化対策、企業誘致策(記号引き止め策)などの個別対策に関する議論が喧しい。だがこうしたパッチワーク的政策展開ではニッチモサッチモ行かないことは誰もが気づいているはずだ。今われわれがとりわけ若い世代に対してなさなければならないことは、彼らに自信を植え付けることである。そのためにはわが祖国を素直に自慢出来るような教育が必要である。その場合歴史教育は抜本的に見直されなければならないということであろう。