ファーストレディーの資質

 総理夫人の安倍昭恵さんが、連日国会やマスコミからの集中砲火を浴び、心情的には少し可哀想な気もする。テレビを通じてしか存じ上げないが、お嬢さん育ちで世間知らず、性格は多分に優しい人。そしてフランクで真っ直ぐ。そう見受けられる。安倍さんは当然彼女のカバーに回っておられるが、未だ万人が納得する説明責任は果たしていない。
 こうしたなかで目下、国会での安倍さんの不用意な答弁もあって、巷では総理夫人は公人か私人かを巡る論争が喧しい。これまで分かったのは、総理夫人の制度的役割が明定されていない。しかし事実として夫人には経産省2名、外務省3名、計5名の補佐官(秘書)が派遣され、その活動が補佐されている。こうした脈絡のなかでは、公用車も比較的自由に利用出来る立場にあるものと推測される。焦点が少しずれてしまかもしれないが、体面を保つために官僚OBが最後まで拘るのは”事務所””秘書””車”の三点セット。こう考えると、総理夫人は官邸を含めて、そうした三点セットを享受する立場にあることは間違いない。すべて税金で賄われているわけであり、ここでは公人か私人かの議論などは無意味なことになる。大事なことは、総理夫人は、”公人”としての活動か、”私人”としての活動かの明確な線引きもないままに税が使えてしまうということだ。
 また歴代総理夫人のなかで、昭恵夫人の社会的活動は群を抜いていることのようでもある。とすればこれまでと比べて、安倍政権になって以降、格段に夫人に係る税金の費消が増大しているということであろう。活動が目立たなければ、ネグリジブルということもあり得よう。だが、少なくとも補佐官的役割の官僚が5名も割り当てられているとすれば、ネグリジブルなどとはとても言っていられない。総理夫人の公的活動を公に認めるのであれば、今後、活動の範囲、予算などを明示的に議論する必要が出て来る。
 ここまで見て来て分かったのは、総理夫人の活動は税金を使う場面がありながら、その活動は基本的に野放しであるということだ。だから今回のように、不適切な機関と不適切な関係を結んでしまう危険性が高じてしまうのだ。当然のことであるが、総理夫人は、自らの個人的資質、信条とは別に、国および国民の利益に反する行動は制約されるのが当たり前である。戦前への歴史的猛省から、教育勅語的なものを否定し、今日の民主主義国家を綿々と築いて来た戦後の歴史を、われわれ国民は共有している。この好例が天皇家であろう。にも拘わらず、”超”右翼的思想に基づいて運営される幼稚園の名誉校長を軽々に引き受けることなどは、まったくあってはならない椿事である。
 昭恵夫人聖心女子専門学校を卒業されたあと、2011年3月に立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科修士課程を修了し、修士号を取得されたそうである。このようにしっかり勉強されたのに、どうしていとも簡単に今回のような教育勅語の陥穽に落ち込んでしまったのであろうか。立教の大学院では、社会デザインの根幹に「戦前思想を据えたい」と考えているのかとまで勘ぐってしまう。昭恵夫人は専門学校卒であり、大学教育を受けていない。大学卒でないのに修士号を取得されたのだから、よほどの秀才なのであろう。にも拘わらずということで、本当に首を傾げざるをえない。昭恵さんどうしちゃったのでしょうか。
 以下は一般論である。一国のファーストレディーの資質としては、何をさて得おいても自らの思想・信条とは別に、オーソドックスなインテリジェンスを保持することが求められなければならない。今回の森友学園のように、幼児に「教育勅語を唱和させる」ような幼稚園には通常のインテリジェンスが働けば、為政者の妻として近づかないというのが常識であろう。今回の事件は国内問題であり、日本的風土における相も変わらない政官・支持者間の癒着構図である。見方によれば、大した話ではないとも見られる。しかしこれが、首脳外交のっ場面で持ち上がった事件であれば、如何であろう。この一連の騒動が示唆するのは、総理は勿論のこととして、夫人も相応のインテリジェンスを持たなければ甚だしく国益を損ねてしまう可能性があるということだ。現在国会やマスコミで問題となっていること以上に、政治の貧困が映し出されているということなのである。