大学におけるビジネス教育危機の本質

 私自身ビジネス教育の一翼を担う立場にあることを踏まえて、このところ大学(含む大学院)におけるビジネス教育のことを考えている。要はビジネス教育なるものは世に有効であるか否かという素朴な疑問である。
 カナダ人経営学者のヘンリー・ミンツバーグは、「ビジネス経験のない学生にビジネス教育を施すことは、他人に会ったことのない人に心理学を教えるようなものだ」という。これは当たり前のことであるはずであるのに、なぜか多くの大学の経営学部(あるいは経済学部、商学部等)では、ビジネス経験のない教員によるビジネス教育が延々営まれる。これはすなわち、「他人に会ったことのない人が、他人に会ったことのない人に心理学を教えている」ということであろう。心理学では明らかに不思議とされることが、ビジネス教育の世界では大勢が疑問を抱かない。これを奇妙といわずになんというのであろう。
 こうした矛盾を前にして経営学者の寺岡寛は、ビジネス教育は理論家と実務家の協働を図ることが望ましいとするなかで、実務家は理論的背景を持たない点で欠格する場合の多いことを指摘する。実務経験のみのオンパレードでは教育効果が薄くなるということであろう。だが、実務家が理論的背景を身に付けることは実はそう難しくない。一方、理論家が実務的背景を身につけることは至難の業といってよい。なぜならば理論家が本気でビジネス体験をする場は限られており、それよりも何よりも理論家の大半がそもそも厳しいビジネス実務の世界に馴染むとは考えられないからだ。勿論のことこうしたビジネス経験にはコンサルティングヒアリングのように、外部者が外から撫で回して悦に入るような体験は含まない。逆は真ではないということだ。
 ビジネス教育と一緒くたにしてしまったが、実はビジネス教育も大きく分ければ2つあると思う。1つは「制度」に関わるものであり、今1つは「意思決定」に関わるものである。「制度」に関わるものというのは、会社制度であったり、会計制度であったり、法制度であったり、経済社会を構成する仕組みを指す。一方「意思決定」に関わるものというのは、ビジネスの世界が全て意思決定の連続であるとすれば、その意義は自明であろう。
 前者の「制度」に関わる話は、現行の制度を前提に淡々と事実関係を述べれば所期の目的は完遂される。たとえば会計制度においては、財務諸表の成り立ち・仕組み、その活用法、あるいはその理論的背景の説明などが情報として提供されれば、そのことの教育的価値は十二分に評価される。このことに異論を唱える人は少ないであろう。また多聞に、こうしたジャンルは純粋理論家が担当してもよいものであろう。
 問題は後者である。「意思決定」の連続がビジネスの真髄であるとすれば、教育において意思決定論を教えることの意義は、意思決定の場面で成功確度の高い手法を伝授することに尽きるといってよい。未来は誰にも分からない。しかし未来を切り拓くための意思決定の結果は必ずや成功体験に結びつかなければならない。それが意思決定論の難しさであり、難しいからこそビジネスマンはその学びに意欲を燃やす。
 またビジネス教育においては、経営階層が高くなればなるほど「制度」教育への期待は小さくなり、逆に「意思決定」教育への期待が大きくなるであろう。官・民主催の経営トップセミナーに群がるマネジメント層が、合理的かつ成算的な「意思決定」法があるとすればそれに縋りたいと思うのは人情である。一般にここでは、理論家より実務家それも成功体験豊富な起業家の話が珍重されることとなる。
 大学におけるビジネス教育の最大の問題は大学が自らの能力を在庫調査することなく、こうした合理的かつ成算的な「意思決定」手法の伝授に乗り出す破目になってしまったことである。特に大学院レベルとりわけビジネススクールにおける教育では、これへの期待が100%といってもよい。「制度」論は書籍でも学ぶことが出来るし、あるいは会計や法律の専門家を雇えば済む話も多い。だが「意思決定」論はそうは行かない。
 「意思決定」術の習得が難しいのは、成功した経営者であればあるほど合理的論理性の枠を超えた神がかり的な意思決定を図る場面が多いからである。私が以前仕えた経営者は日頃から「勘ピュータ」であることを公言して憚らなかった。高等教育を受けていない叩き上げの経営者にこうしたタイプは多い。だが彼は叩き上げでこそあれ、大学では応用物理学科を修めている。バリバリの理系人間である。その彼にして「勘ピュータ」なのである。このことの意味は象徴的である。
 前述したミンツバーグはビジネススクールにおける現行の教育法を批判して止まない。ミンツバーグによれば、経営者にはアート(ビジョン)・クラフト(経験)・サイエンス(分析)の3つの要素が必要である。しかしながらこれまでのビジネススクールではサイエンスに偏った教育が主体とされており、とりわけクラフトの要素が無視されてきたのだという。だから満足なマナジメント層が育たないというのである。
 そうした現実を踏まえた場合の次善の策としては、ハーバード方式として有名なケーススタディ法が採用されることが多い。ミンツバーグによれば、こうした方式も現実のマネジメントの場合には有効ではないとする。なぜならば、ケーススタディ方式はロースクールの手法を範としているわけであるが、裁判所は一種の閉じた仮想空間であり、そこで展開される議論は只管ロジックとロジックのぶつかり合いである。ケーススタディ方式はこのような場合の、一定空間における一定のルールの中での論理を闘わせる技術を磨くためにこそ有効な技術なのである。
 しかしながらビジネスの場は必ずしも厳密な定番のルールが課せられるわけではなく、また論理を貫徹さえすれば結果のうまく行くことが保証されるものでもない。ビジネススクールといえばケーススタディといわれるくらい、この方式は一般に認知されるようになっているわけだが、ミンツバーグはこうした理由を挙げてその効果に疑問符を投げかけているのである。
 翻って私は一連の経営学に連なる学問を一切否定する立場にはない。経営学を死体解剖に基づく一種の分類整理学と認識すれば、それはそれで有効性は大きいと思う。また歴史学も過去の現象を史料を 矯めつ眇めつする中で分類整理して理論化を図る学問という点で、経営学と同根といってよいであろう。加えて歴史に学んだり、経営学の法則がそれを採用するか否かが、学び手の裁量に任されているという点においても親和性が高い。
 早い話歴史に学んだり、経営学の法則に従ったりさえすれば、成功体験を積み重ねることが出来るわけではないのは明らかである。いずれにしても、先人たちの知の集積物としての経営学の成果には一定の敬意を払わなければならないとしても、意思決定局面におけるその応用・適用が必ずしも成功体験を保証するものではないことも事実である。
ビジネス教育の必要性は認めながらも、経営理論が現実のビジネスの場面で有効性を欠くのだとすれば、われわれは大きな間違いを続けて来たということではないのだろうか。否、それ以上に、そのことはビジネス教育の関係者の間では周知の事実であって、その上で自らの糊口を凌ぐために、敢えて自己増殖を続けて来たのだとすれば、その方が遥かに罪が大きい。
 リーマンショックの勃発によって端無くも露呈した金融立国主義の虚構性も、ビジネス教育の矛盾性と地下茎で繋がっているということであるかもしれない。考えすぎと何といわれようと、こうした素朴な疑問を一つひとつ一般に納得の行くように解決を図らなければ、18歳人口がますます減少に向かう中で、大学におけるビジネス教育は、学ぶ人の重要にも、それを使う人の需要にも応えることが出来ないという現実を前にして衰退の一途を辿ること必定である。