大学はワンダーランド:学部の自治・教室の自治とは?

 大学に出始めて、不思議なことを沢山経験しているが、そうした中でも未だによく分からないのが「学部の自治」「教室の自治」ということである。昔私の学生時代には「大学の自治」ということが盛んに取り沙汰された。取り沙汰されたばかりではなく、それが最大限尊重されもした。学内で例え如何なる暴力行為が行われても、学長の応諾がなければ警察権力は全く介入出来なかった。大学はその創設以来、「学問の自由」を巡って時の権力と鋭く対立して来たことがその背景にあったからだ。
 しかしそうした構図は、1969年1月の安田城攻防戦を境に大きく変化した。安田講堂事件は次年度の入学試験実施期限を控えて、加藤一郎総長代行が安田講堂を占拠する学生を排除するために機動隊を導入するという決断を下したことによって生じたものである。これまでも大学への警官導入はあった。しかしわが国においても大事に守り続けられて来た「大学の自治」が、安田講堂事件によって象徴的に崩れ去ったことは間違いない。
 「学問の自由」を保証するための「大学の自治」。大きな歴史の流れの中でそれが果たして来た役割は十分に理解される。だが今日の大学を想定した場合、「学問の自由」を保証するために「大学の自治」を図らなければならない大学はどれくらいあるだろうか? 世の中の流れに従って大学の性質も変革せざるをえない。安田講堂事件を嚆矢として「大学の自治」は否定されたということだ。
 これからが私の不思議である。大きな括りで「大学の自治」自体が否定されたにも拘らず、大学内には未だ「自治」が存在する。それは「学部の自治」と「教室の自治」の二つである。多聞にこれら二つの自治は「大学の自治」を守り抜くために必要な権利であったのであろう。だが「大学の自治」自体が否定された今日、この二つの自治ばかりが残るのはおかしい。
 「学部の自治」とは、大学当局(あるいは理事長・学長)をもっても学部内の運営には関与出来ないということである。これは教員人事、教育方針、カリキュラムの組成などについては学部に決定権があり、この権利を当局も基本的に侵すことが出来ないということなのである。
 「教室の自治」ということは、要するに教室内では教員が全権を持つということである。例えば学生の受講対応など共通的にルールを掛けた方が望ましいものでも、基本的にその決定に教員は縛られないということなのである。
 この二つの自治は私には不思議でならない。これらの自治を認めてしまえば、大学全体としてのガバナンスが吹き飛んでしまう。実際これだけ大学改革が叫ばれている中で、多くの大学が大胆な改革に踏み出せないのは、こうした「教員」の権利が固く保護されているからだ。ここでは敢えて「教員」の権利と書いた。私見では、二つの自治は「学問の自由」とはまったく関係ないと思われるからだ。
 教員の怠慢と保守、それに自己保身。それが「学部の自治」「教室の自治」の理論的根拠と言ってもいいすぎではない。それをもっと辿ると、大学教員の大多数は本音では教育が嫌いであることに辿り着く。色々理屈を捏ね繰り回すが、要は好きな(あるいは独りよがりの)研究をやることが出来ればいいのであって、訳の分からない学生や学内の雑事には極力時間を割きたくない。そういうことである。
 これでは、学生や社会のニーズにマッチングする大学に脱皮することなどまったく困難である。少子化の影響は勿論大きい。だが大学不振の最大の原因は大学教員のやる気のなさである。私の出ている大学では「学生さんは神様」であると言う。敢えて言うまでもないことではあるが、これは「お客様は神様」という陳腐かつ幼稚な発想からのアナロジーである。
 こんなことをお題目的に唱えても前には進まない。学生を単にお客様扱いして大学が成り立つかどうかは別の話である。しかし問題は大学が本当にお客様として扱っているかどうかである。お客様扱いするのであれば、もっともっとやるべきことは沢山ある。だがそうしたやるべきことは「学部の自治」や「教室の自治」に阻まれて一向に前進していない。だから私は大学教員は怠慢だと思うのである。
 金沢工大は良質の教育を提供する大学として近年とみに評判が高い。私も何年か前に訪れたことがある。そこでは幾つかの新鮮な驚きがあった。例えば、教室がガラス張りで外から授業ぶりが見られること、教員個室も廊下に向けて一部ガラス窓で居室状況が見られること、数学・物理等の基礎科目の教員は常時大部屋で学生の対応に当たること、等々を目の当たりにして本当にびっくり仰天であった。
 金沢工大には「学部の自治」や「教室の自治」といったけちな考え方はない。お客様である学生に対するより良い対応を追求した結果、必然的に今日の姿になったのだと思う。「学生は神様だ」と言う先生がたの多くにそうした覚悟はあるのか? それがないからドツボに嵌ってジリ貧となるのである。
 では金沢工大ではなぜこうした対応が可能なのだろうか? その最大の要因は企業経験者が多いということである。日本の企業では個室が与えられる者は少ない。役員になっても個室のない会社があるくらいだ。また会社勤めでは必ず誰かに管理・監督される。だから大部屋で仕事をすることも仕事ぶりを誰かに覗かれることも平気である。
 大学では常勤の教員に採用されれば、どんなに歳が若くても研究室と称する個室が与えられ、一国一条の主となる。そしてそれが当たり前のこととなってしまう。そうした感覚であるから「教室の自治」なるものもちっとも不思議な現象でなくなる。それがどんなに改革の障害になって、回りまわって自分で自分の首を絞めることとなっても、そうした蛸壺から一歩も這い出て来ないのである。
 ビジネスの世界では市場が縮小しジリ貧となることはいくらでもありえる。そういう目で見れば、今日の大学の危機は危機でも何でもない。マネジメント力の発揮でいくらでも乗切ることが出来る。「学部の自治」とか「教室の自治」とか口当たりの良い言葉に酔い痴れている大学は潰れて当たり前である。
 要は大学経営もマネジメントの問題であるし、ガバナンスの問題である。マネジメントの能力を持たない経営者がマネジメントに当たり、ガバナンスを放棄した経営者が形だけの統治に当たっても、それは考えるまでもなく無理な話である。頭のいい人が沢山いる割に智恵が総身に回らない。大学というところは本当にワンダーランド(不思議の国)である。