人間と動物の奇妙な関係:口蹄疫騒動から

 27日午前0時をもって家畜の移動・搬出制限区域が解除されたことによって、宮崎の口蹄疫騒動が3ヶ月ぶりに終息に向かう見込みだということだ。まずはご同慶の至りである。ただ口蹄疫とは直接関係ないのだが、今回の騒動を通じてわが国における人間と家畜の関係について改めて奇妙な感じを持った。そのことを書く。
 私は北海道の出身で、伯父の一人が酪農農家を営んでいた。子供のころ、夏休みはよくその農場で過ごし、新鮮な牛乳を鱈腹味わい、裏の柏林で存分に蝉取りをした。そしてかたがた、朝は放牧に、夕べは牛舎へと、牛の移動を手伝ったりもした。牛の取扱いについては、少し年上の従姉が先生だった。
 牛という動物は見かけののんびりムードとは異なり、結構強情でなかなか言うことを聞いてくれないものである。夕方放牧地から牛舎に連れ帰ろうと鎖を引いても、従姉の言うことはよく聞いて素直なのだが、新参者かつ子供の私は舐めきられ、鎖を引いてもうんでもすうでもないのだ。動かないのならまだしも、そのうち急に走り出したりして、私を明らかにからかい始める。
 馬もそうだ。放牧からの帰り道。先頭を行く伯父の馬の背に一緒に乗せられていると、数珠つなぎに後ろからやって来る馬が私の足を咬んだり、舐めたりと盛んにちょっかいを出して来る。伯父の鞭の一振りで一旦は引き下がるのだが、ほとぼりが醒めたころにまたそれを繰り返す。牛同様、明らかに私をからかうのだ。
 こうした牛や馬との触れ合いから、私は彼らに知性があることを学んだ。新参者の子供は舐めきり、ご主人様には従順。また子供と見れば遊びたがる。これは知性以外の何であろうか? だからといっては少し短絡的かもしれないが、そうしたこともあって、私は馬肉はもとより牛肉も、成人して暫くするまで口にすることが出来なかった。
 宮崎に戻る。上記のような経験から今回の口蹄疫騒動で改めて不思議に思ったのは、宮崎の畜産農家の方が「食べられるために産まれてきたのに、食べられもしないで埋められてしまって可哀想」と語ったことだ。そして「畜魂碑」などが建立されたとも聞く。牛の立場になれば、病気の懸念で殺処分されることと、使命を果たすために食肉として殺処分されることと何が違うのだろうか?
 神戸牛などの極上ブランド牛の生産農家の一部では、同じ屋根の下で丹精込めて生育する。そうして生育した牛を出荷する時に涙ながらに送り出す。心情は分からないではないが、考えて見ればこれも奇妙な光景である。最初から食肉とすることを前提に生育し、いざ出荷となると悲しみを抑えられない。これは動物に関する日本人の心の奥深いところでの「原」感情ということなのであろうか?
 確かにこうした感情は、「四足を食べてはいけない」という民族としての暗黙識と言ってもよいのかもしれない。私のささやかな家畜経験もそうであるが、四足動物を食べることの深層心理における無意識の抵抗感。そうした深層意識が「畜魂碑」などの建立に駆り立てるというのは穿った見方であろうか? もしそうであるとするならば、そもそも日本人には食肉畜産は向かないということであるのかもしれない。
 ムツゴロウこと畑正憲先生は生前どんなに可愛がっていた動物でも、「死んだら食するのが何よりの供養」と公言して憚らないと聞く。さすが動物学者である。食物連鎖を持ち出すまでもなく、科学的には本来的に、われわれが大なり小なり他の生命の犠牲のうえに自らの生命を養っている現実から目を逸らすことはできない。また逸らしてはいけないのだ。
 生命があってこその動物であるし、生命があるからこそそれが愛玩の対象となる。死んでしまえばただの食肉である。物体である。ここには冷厳かつ極端に合理的な唯物論の考え方が横たわっている。要はムツゴロウ先生ほどの感性を持たなければ、真の肉食系民族にはなれないということであろう。
 では人間も死んでしまえばただの物体だからといって、食べてしまってよいかと言えば、なかなかそう考える民族は少ない。通常、その動物を食べてよいか悪いかの線引きは「知性」がその基準となっているようである。欧米人が鯨や海豚を捕獲してはいけないとするのは、これらが高度な知性を持っていることがその根拠とされる場合が多い。
 一方で私のように牛や馬にも「知性」を感じる人間は多いと思う。そうすると牛や馬も食べてはいけないこととなる。したがって食料として「鯨や海豚が駄目で、牛や馬がいい」ということを主張するためには、鯨や海豚の知性が牛や馬の知性を上回ることを証明することが必要となる。「鯨・海豚vs.牛・馬」の知性合戦である。
 もっともこうした知性比べが科学的に決着が付いたとしても、それで世の中はうまく行かないことは明らかである。そこには「知性」を超えた「感情」が横たわるからだ。こうした合理性からほど遠い人間固有の「感情」が存在する限り、一方で合理性の固まりである科学的な知見は用をなさなくなる。
 結局「人間は感情的動物である」という普遍の命題に戻ってしまう。いっそ科学性の衣など纏わずに、この命題を前提に議論すれば捕鯨を巡る論争だって、他の多くの国際間の問題だって「問題の所在」がクリアになるのであろう。何時もの悪い癖で、口蹄疫騒動からここまで想像が膨らんでしまった。他意はない。戯言である。