鳩山さんは本当に馬鹿なのか?

 この連休に鳩山さんが首相として始めて沖縄を訪問し、その対応の不手際に非難の声が上がっている。こうした非難は大きく2つに分けてよいだろう。ひとつは、普天間の移転先を「最低でも県外」と言明していた発言を、党の公約ではなく党代表としての個人的見解と言い逃れ、前政権の決定に従って事実上辺野古への移転を容認したこと、今ひとつは、あれだけ反対の多い徳之島への一部機能移転を根回し不足のまま公表してしまったことである。
 沖縄県民のやりきれなさを忖度して、県外移転を言い出したことは個人感情としてはよく分かる。これこそが友愛精神の発露なのであろう。だが鳩山さんは寝てる子を起こし、虎の尾を踏んでしまったのだ。
 全国民が、在日米軍に他国からの侵略を未然に防ぐ抑止力を認めたとしても、だからと言って、これから基地を進んで引き受けるという奇特な自治体はほとんど皆無であろう。「総論賛成・各論反対」、あるいは「敢えて火中の栗を拾う者はいない」ということだ。徳之島のケースはその好例である。
 こんな単純な理屈が鳩山さん、及びその側近になぜ分からなかったのであろう。そもそも大した成算のないままに「県外移転」を打ち出して、徒に沖縄県民の期待を煽り、その挙句にやっぱり難しいので元の案では、怒りの持って行き場ない。こんな稚拙な行動では、如何に友愛精神を認めたとしても合格点からほど遠い。失礼ながら、ついつい鳩山さんは本当に馬鹿なのではと思ってしまう。
 鳩山一族は真正の秀才揃いである。曽祖父、祖父、大叔父、父、弟、息子と皆東大である。鳩山家は代々政治家と学者の家系であり、これに石橋家の財力が結びついた。権力・知力・財力を欲しいままにするわが国最大のセレブ家のひとつである。
 鳩山首相ご自身も東大工学部を出た後、スタンフォードph.Dの学位を取られた。初の博士号を持った首相ということである。優秀さは折り紙つきである。そのセレブ首相が民情に詳しいとされ、友愛などと仰るものだからついつい期待が大きくなってしまう。一国の首相にインテリジェンスは必要である。わが国では前首相があまりにも無知・無学ぶりを露呈しすぎたために、一層のことインテリ首相への憧憬が強かった。
 しかしながら優秀ということはどういうことなのであろうか? 鳩山さんは就任以来数々の迷走を繰り返して国民の不興を買い、民主党誕生の立役者でもあった山口二郎北大教授から三行半を突きつけられる体たらくである。支持率はまさに釣瓶落としである。
 鳩山さんと対極にあるのが、戦後の首相で言えば田中角栄さんが第一である。裸一貫でのし上り今太閤と称えられる一方で、ロッキードに代表される不正金脈が指弾され、表舞台から退場せざるをえない状況に追い込まれた。そして病を得て淋しく世を去った。田中さんは地頭のよさと気配り、それと抜群の行動力で、コンピュータ付ブルトーザーの異名を欲しいままにした。要は卓越したリーダーシップの持ち主であったということだ。
 鳩山さんと田中さんの最大の違いは、リーダーシップである。翻って経営学には様々な分野が含まれるが、達観すればリーダーシップ論に尽きるとも言われる。政治家もある意味経営者であるとすれば、その資質としてはやはりリーダーシップが第一に求められる。田中さんに比べれば鳩山さんは明らかにリーダーシップに欠ける。口先があまりにも先行しすぎるということだ。
 リップサービスが過ぎるのは、これは頭のいい人の性である。兎に角「言葉先にありけり」の世界で、念仏を唱えさえすれば現実がそれに付いてくると思ってしまう。理屈(=論理)で全てが割り切れると思ってしまうということだ。
 学者は基本的に頭がよくなければ務まらない。そしてその頭のよさとしてはまず記憶力と論理思考が求められる。この2つは優秀な学者に至る必要条件である。しかしこれは飽くまでも必要条件であって、必要十分条件ではない。必要十分にするためには、十分条件が必要となる。この場合十分条件とされるのは、経験と洞察力に裏打ちされた勘である。この条件を満たさなければ学者としての大成はない。
 「論理」命のような学者先生の世界もそうであるわけだから、生身の人間を扱う政治家先生の世界では当然のこと論理のみの世界であってはならない。鳩山さんに限らず民主党の諸先生に私が不満なのは、事業仕分けに代表されるように理屈が勝ちすぎるということである。概して経験不足かつ洞察力不足で、したがって必要な勘が働かない。民主党の最大の問題はこれに尽きると言ってもいいすぎではないと思う。
 加えて鳩山さんは工学を専門とすることが仇になってしまっている。理系の世界ではどんなに些細なパーツでもそれを欠いてしまうと、期待する機能が満足には再現されない。エンジンにミリ単位のビスを欠いただけでも、それが動かなくなってしまう。
 私は基本的に文系人間であるが、部下に理系人間を持った時に面白い経験をした。彼らのことごとくが優秀であればあるほど、ディテールに自縄自縛となってしまうのだ。予め考えた前提条件として何かが欠ければ先に進めない。仮に先に進んだとしても前提条件が満たされない中で出された結論には徹底的に懐疑を抱く。
 鳩山さんは理系出身である。鳩山さんにそうした傾向はないだろうか? 政治は所詮ガラガラポンの世界である。前提条件が如何に精緻に用意され、演算式が如何に完璧に組み立てられても、結果はひとつというわけに行かない。
 普天間問題で言えば、前提条件をひとつひとつクリアしたとしても、唯一解を導く方程式は未知数の分だけはとても用意出来ない。つまり解答は複数になるということだ。あとは政策判断としての選択の問題になる。この場合現実的な解決案は複数解の組み合わせになるであろう。これも選択の問題である。
 もしかしたら鳩山さん(あるいは菅さんも)の思考は、こうした理系的思考方法から逃れることが出来ていないのではないのだろうか? 要は大局観ということである。政治がバランスであるとするならば、皆が得をすることはない。国民が等しく我慢をする中で、最大多数の最大幸福を追求するのが正しい姿であろう。
 如何に友愛精神に溢れていても、特定の利益集団に予め特定の利益を約束するような行為を、政治家それも宰相は絶対に採ってはならない。その禁を犯したからこそ鳩山さんは指弾されているのである。私が秘かに怖れていたのは、鳩山さんはマザコンの単なる学校秀才であることだ。
 政治の世界では、学校秀才はただの馬鹿であろう。鳩山さんが「自分はそうでない」ことを証明するためには、本欄で前回(4月30日)書いたように、自らの政治信念を末代まで示すための「自爆テロ」の実行しかもはや残された道はないのではないかと思う。不本意ながらこの連休の間の鳩山さんの行動に、ますますその感を強めてしまった。