参議院をこんどこそ“良識”の府に

 期待値以下の民主党政権はよれよれである。そして普天間問題を巡る社会党の政権離脱でそうした“よれよれ”度はいっそうのこと高まった。鳩山さんは確かにリーダーシップに欠けるし、一方の小沢さんも旧弊を引きずる悪代官の印象がどうしても拭い切れない。内閣および民主党の支持率は低下する一方である。
 だが政権交替後自民党時代の数々の悪行が次から次に明らかにされたことは、政権交代があったからこそのことである。自民党を割って出た舛添さんは、「厚労大臣時代に、国民目線に立った政策を展開しようと思っても、党内の族議員に足を引っ張られることばかりであった」と語り、「(族議員が跋扈する)政策調査会などは本来的に要らない。(民主党が)政策立案を政府に一本化したことは評価出来る(ただし小沢問題がなければ)」と民主党にエールを送っている。政治的発言を割り引いたとしても、この相当部分は本音であるだろう。
 こうした自民党の内幕を聞くにつけ予め想像されたことではあるが、「自民党はここまで腐っていた」のかというのが素朴な感慨である。ということは民主も駄目、自民も駄目ということになってしまう。では私たちはどうすればよいのだろうか?
 私たちは政治(家)に常に絶望してきた。しかし絶望しているだけでは一向に埒が開かない。3年前の参院選、昨年の総選挙などは、国民がそうした絶望から希望を取り戻すための一大行動であった。「権力は腐敗する」とは言い古された言葉である。そうした腐敗の一掃に国民が駆られたということである。
 事業仕分けは、本来的に私は好きでない。政治家先生は兎も角、素性のよく分からない民間委員なる方々が妙にはしゃぐ姿が気に食わない。だが先般UR(都市再生機構)で明らかになったように、多額の税金を投入する中で、ファミリー企業を乱立させてグループとしての自己増殖を只管図る。そしてそこに連なる人々が法外な分け前に預かる。
 方法は色々あるにしても、現独立行政法人=旧特殊法人の組織論理はどれもこれも、URが露呈したものとほぼ同じである。政策遂行を大義名分に、税金を使って誰かが私的に旨い汁を吸う。そこに政治家先生が巧妙に絡む。結果首が回らないほどの借金の山。独法の全てがそうではないことは承知しているが、大半はそんなところであろう。
 こうした独法に代表されるような旧弊を一掃して「新生日本」を目指すことが、政権交代の大きな意義であった。だから国民は民主党を支持した。しかし鳩山さん・小沢さんをはじめとする民主党の先生がたはことごとく期待を裏切り続けている。気の早い向きは後継首班として舛添さんや前原さん、菅さんの名前を上げる。だが彼らに首班をすげ替えたとしても、事態が好転することはないであろう。それだけわが国の政治は病んでいるということだ。
 政治がこうした体たらくとなってしまったのは、政治家およびそうした政治家を選んできた国民の責任である。国民がちっぽけな利権にしがみついて、おねだりを繰り返し、そして自分で自分の首を絞めてしまった。あるいは無責任に大した深い考えもなく、有名人に投票してしまった。
 テレビのインタビューなどに答えて一般国民が、「鳩山が…、小沢が…」と政治批判を繰り返す姿を、私は正視することができない。こうした政治を作ってしまったのはわれわれ国民の責任が一等大きいからだ。マスコミの深謀遠慮に引っ掛かってしまったということなのかもしれないが、そうした反省もなく、嵩にかかって発言することの自らの醜さをどうして感じないのであろうか? 私には不思議でならない。
 もっとも政治について選挙ということを前提に考えれば、「立候補する政治家がこんなものであり、選択の余地がないではないか」という反論はあろう。元に戻ってしまうが、要は政治家の資質にあまりにも欠ける者しか選挙に出てこないという嘆きである。私もそれには基本的に賛成である。
 現在国会議員に目立つタイプは、第一に、世襲議員、第二に、タレント等有名人、第三に、労組等の組織代表。それから松下政経塾出身者。こういう人々が政治を志し、政治を司り、そしてわが国を破綻の瀬戸際に追い込んだ。極めて乱暴な言い方ではあるが、要するにこういう出自の方々に政治を任せることはできないということだ。それは自民党政権民主党政権を通じて失敗の連続であったという事実を見れば一目瞭然であろう。この事実は、彼らが政治を担いきれなかったということを如実に示しているからだ。
 例えば小泉チルドレン小沢チルドレン松下政経塾終身者という人たちを見てみよう。全部が全部ではないが、彼らは相対的に若い時代から政治家を志す。つまりは最初からプロの政治家を目指すということだ。しかしプロの政治家とは何なのだろうか?
 マックス・ウェバーは、「政治は本質的に権力と関わる。そしてそれには暴力によってしか解決できない課題がある。したがって政治家は、手段としての権力と暴力性とに関係を持つ者であり、そうした悪魔の力と契約を結ぶ者なのである」とする。だからこそウェーバーは政治家の資質・条件を追及するのである。
 悪魔との契約を結ぶという意識を持つ政治家がどれくらいいるであろうか? 私の推測するところ、そうした意識を持って自制する政治家はほとんど皆無と見る。政治家を志すということは悪魔と契約を結ぶほどの覚悟が必要ということを知っていれば、大半は知りごみして、自らの政治家としての資格を自ら予め問うはずである。
 少なくとも、民主党が擁立する谷亮子さんをはじめとするタレントさんたちには、そうした知識も覚悟もないであろう。もし知っていて「政治家でも金」などと仰るのであれば、流石ゴールドメダリスト。いい度胸である。
 真に政治家としての覚悟と気概を持った候補者を政党に擁立させることは、これからの課題である。小沢さんは未だ旧態依然と、多数の陣笠議員を作り出すことを通じて「多数の論理」で中央突破を図ろうとしている。それを小沢チルドレンと呼ぼうが何と呼ぼうが、多聞にそうした候補者に投票に値する者はほとんどいないはずである。
 今回は参議院選挙である。本来参議院政党政治から離れて、議員自らの良識を戦わせる場である。それをそもそも多数の論理で縛ろうとすることがおかしい。この期に及んで、こうした手法を取ろうとする小沢さんはもう過去の人である。民主党の不人気は鳩山さんの失策ばかりが取り沙汰されるが、小沢さんのアンシャンレジウムぶりも同時に問われている。そのことは是非忘れてはならない。
 政治における民主党の強権発動はもはや、自民党がいうまでもなく脅威である。財政事情への十分な配慮や議論もないままに、子供手当やエコポイント、高速1,000円の延長などが心太式に通過してしまう。事業仕分けも何の権威に基づいて枝野さんや蓮舫さんが捌くのか。
 参議院選挙に関する世論調査で、人気が自民党に逆転されてしまったのは当たり前のことである。数の論理で何でも押し通すことができるのであれば、極端な話、国会など要らない。それを直感した国民は、民主党参議院における絶対多数を渡さない決断をしたということだ。極めて当然のことである。
 民主党が人気を挽回するためには、自党候補者にもっと適格な人物を擁立しなければならない。これは自民党をはじめとする他の野党も同じことである。繰り返すが、参議院政党政治の枠を超えた“良識”の府である。言うまでもなく、候補者はこの資格を持たなければならない。そうした候補者を各政党はどれだけ用意できるかということだ。今回の選挙ではマニフェストより、われわれは参議院政党政治から距離を置く中で真に“良識”の府とする。われわれ国民自身の自省を込めて、そのことにこそ腐心しなければならない。