鳩山・小沢の“連れション”辞任と民主党の再生

 鳩山さんと小沢さんが連れション辞任した。小林千代美さんは女性なので一緒に連れションというわけにはいかないだろうが、鳩山さんは彼女にもはっきりと辞任を求めた。要は自らの進退を決めたあとには何でもできるということだ。
 私は4月30日の本欄で『鳩山さん、自爆テロのご決断を!』という少々物騒なもの言いをした。もっともタイトルに反して主旨は穏当?で、政治家として後生に名を残すためには「政権を譲り渡す決断を早く固めて、自らが真に信じる政策を万難を排して実行すべきだ」ということを言ったにすぎない。
 小沢さんを一方の極とする呉越同舟を絵に書いたような民主党において、総理といえども、自らの信念を実現することが難しいのは容易に理解されることである。それもこれも後顧を憂えて腰砕けになるからそうなのであって、辞めることを前提とすれば何も怖いものはなくなる。だから私は鳩山さんにはお辞めになることを決断したうえで、友愛精神に則った正義を是非実行して欲しかったわけだ。
 今回どちらが言い出したかは別にして、小沢さんも一緒に引きずり降ろした。そして返す刀で、同じように政治とカネの問題を抱えながら居座り続ける小林さんにも辞任を迫った。これは一人小林さんに向けられたものではなく、同じ穴の狢である日教組のドン・輿石東さんにも向けられたものだという。
 自爆テロを主張した時点で私自身は、より政策に直結する場面を想定していた。しかし方向性が若干狂い少々矮小化されすぎはしたものの、これはこれで見事だと思う。やればできるではないか。おまけに鳩山さんは次回の総選挙にはお出にならないという。このように予め退路を断つ不退転の決意で政権運営に臨んでいれば、また違う目も出たのではないか? 返す返すも残念に思えてならない。
 そう思うのは、もしかしたら鳩山さんは現代が要求するリーダーの型に近いのではないかと考えるからだ。中京大学教授の寺岡寛さんの近著『指導者論』で紹介されるところによれば、もはやカリスマ的リーダーシップの時代は疾うに過ぎ去り、今求められるのは“インテリジェント・リーダーシップ”であるという。
 インテリジェント・リーダーシップというのは、組織における個々の成員の能力を十二分に引き出し、成員それぞれの協力を推し進め、共通目標のコーチングを行うところの方法ということである。そのためのキーワードとしては「対話」「説得」「協力」「共有目的」「支援」ということがあげられ、これらの要素が大きな役割と位置を占めることになるということでもある。
 辞任を決意してのちの鳩山さんは実に軽快かつ率直である。東工大の講演では辛口ジョークも含め鳩山節全開であった。弟の邦夫さんの仰るところによれば、「由紀夫さんは権力欲が強く、権謀術数も駆使する方なのだ」そうである。幼い頃から一緒に育った実の弟さんの仰る話なので信憑性が高いが、だがわれわれの前に曝け出した姿はまったく権謀術数などから程遠いものであった。政治家であることからしてお腹の中が真っ白とは思わないが、心底は真面目に”友愛”社会の実現を目指す理想主義者であるのだろう。脇の甘さ、政治家にあるまじき口の軽さを含めて、これが多分鳩山さんの本領であるのだろう。
 リーダーシップ論に戻る。いずれにしても単純比較はできないが、小沢さんは相対的にカリスマ型であろうし、鳩山さんは相対的にインテリジェント型と言ってよいであろう。寺岡さんの著書に従えば小沢さんはそうした意味でも過去の人であり、鳩山さんは現代の人である。過去と現代が交錯するなかで、鳩山さんは自らの手によって喧嘩両成敗とした。その構図が今回の連れション辞任ということであった。鳩山さんの辞任は、民主党が国民の期待に真に応えるために避けて通ることのできない途であったのだろう。
 なお鳩山さんが政界引退を示唆しているのに対して、一方の小沢さんは権力奪回に意欲満々ということである。ただ歴史の流れを意識すれば、小沢型リーダーシプの本格的な復権は難しいわけだ。時代が求めるインテリジェント・リーダーシップは小沢的なものとの間の溝が深すぎる。本来的な民主党はインテリジェント型リーダーに率いられる組織とのイメージが強い。少なくとも菅さんだってカリスマ型ではない。
 要は今後の民主党ひいてはわれわれの生活は、如何に小沢型なるものから離脱するかということにやはり大きく関わってくるということであろう。そうした意味で150名に及ぶと言われる小沢グループの先生がた、とりわけ小沢チュルドレンと呼ばれる方がたが選挙を別にしてどこまで小沢さんに心服できるのか? そのことを自ら問うことが新生民主党の第一歩に繋がることは間違いない。