民主党政権は再生可能か?:日経新聞「経済教室」の議論から

 日経新聞「経済教室」では菅内閣誕生を受けて、『政治を立て直す 短命政権の先に』というシリーズがこの8日から11日まで4回にわたって連載された。第1回は田中直毅さんの「永田町も『失われた20年』」(8日)、第2回が堺屋太一さんの「国民との距離を縮めよ」(9日)、第3回が山内昌之さんの「政策の取捨選択欠かせず」(10日)、第4回が山崎正和さんの「指導者は難題と向き合え」(11日)というものであった。
 このなかで鳩山内閣が短命に終わったことについて、田中さんは、野党時代の鍛錬を怠ってきたことに起因する“未熟”さを、堺屋さんは、幕末・戦前期との政治状況を比較するなかで歴史的な“体制”疲労を、山内さんは、鳩山さんのリーダーとしての振る舞い及び意思決定に関する錯誤を、山崎さんは、昨今の文明・社会状況を映したリーダーなき“ポピュリズム”の跋扈を、それぞれ指摘する。
 各人の個別の主張についていま少し詳しく見てみることとしよう。まず田中さんは、民主党が責任ある政権政党として自らを磨くことをサボってきた咎めから、結果として、われわれ国民は「既得利権のしがらみから脱せられない自民党と、鍛えられていない未熟な民主党」という選択肢しか持ちえず、「政権交代」も結局は「鍛錬を欠いた政治家を補充するだけ」のものに終わってしまったのだという。
 また堺屋さんがいう体制疲労の最たるものは、「議会制民主主義ではなくして、官僚主導である」ということだ。官僚は「政権の味方でも部下でもない。組織人の常として、官僚もまた官僚共同体にのみ忠誠である」、あるいは「“批判を回避し、権限の楽しみを保ちたい”という組織の私欲で動いている」のだとする。そして幕末・戦前期の逼塞状況が打開されるためには、明治維新や敗戦を待たなければならなかったわけである。堺屋さんがそこまで予感しているとすれば、これはとても小手先の改善事項ではないということだ。
 さらに山内さんは、「政治家のリーダーシップとは、意見の違う人びとの抱く信念や抱負や希望を理解しながら、歴史的根拠に基づく理想と現実のバランスを鋭敏な政治センスに結びつける行為にほかならない」とし、鳩山さんに必要だったのは「政治手法の基礎として歴史的思考に基づく“常識力”を働かせることであった」という。
 最後に山崎さんは、「グローバル化の下で政府のできることは小さくなる一方なのに、うすうすそれを感じる国民はいらだちを強め、せめて見かけ上の変革を性急に求める方向に走った」とし、そうしたなかで小泉内閣鳩山内閣においては「リーダーに雄弁もカリスマ性もなく、ただ国民が闘うべき敵(抵抗勢力や官僚など)だけが名指しされた」にすぎない。これがリーダーなきポピュリズムの梗概であるというのだ。
 単純に整理すると田中さんと山内さんは、政党及び政治家としての未熟さ並びに鍛錬・準備不足を、堺屋さんと山崎さんは、より深層にわたる要因として歴史及び文明・社会問題を指摘するわけだ。前二者の見解に従えば、政党及び政治家が自らを磨けば改善する可能性が見出せる一方で、後二者の見解に従えば、問題の解決は歴史・文明の流れに委ねなければならないこととなる。
 いずれもわが国を代表する論者の議論である。凡夫たる私に、どちらの洞察が真実を映しているかを判断する能力はない。ただ面白いのは、田中さんと山内さんのお二人は60歳台半ば、堺屋さんと山崎さんのお二人は70歳台半ばということで、この10歳の年齢差が見解を分けたということであれば、われわれは論者の個人史(とりわけ彼らが生きてきた時代背景)にも着目しなければならないということであるかもしれない。