前原さんと民心、そして松下政経塾

 前原国交大臣は頭がよいことは無論で、多分情誼にも厚い人だと推測する。懸案の八つ場ダム、JAL、羽田のハブ空港化など矢継ぎ早に着手し、早速快刀乱麻の活躍である。彼の場合結論が先に語られ、実に明快である。要するに立場が非常に分かりやすい。だがその反面、各方面に軋轢を生じさせている。
 軋轢が生じるのは、彼の物言いが関係者の癇に障ることが多いからであろう。結論「先にありき」は分かりやすい。だが一方で、結論を出すためには前置きが必要なことも事実である。懸案の三題についても、無前提に結論がポンと出されるから関係者は戸惑ってしまう。また外見には不遜さも感じてしまう。
 こうした振る舞いはどこで身につけたものなのだろうか? 持って生まれたものなのかもしれないが、彼は松下政経塾の出身である。同塾での影響が多いことも多分に推測される。まして彼は大学卒業後すぐに政経塾に入り、そして京都市議。政治家一辺倒の人生である。要するに社会人としての「普通」の生活をしていないのだ。一般人の生活をしていれば、現在物議を醸しているようなことなどは絶対に生じ得ない、と私は考えている。
 下世話な「民心」に配慮がないのである。前原さんは早くに父親を亡くし、苦労されたようである。そうした生い立ちが彼の政治家としての原点なのかもしれない。そう考えれば他の世襲政治家などとは異なり、本当は「民心」に通じているのかもしれない。したがって、単に意思表明の仕方を間違えているだけのことであるのかもしれない。
 翻って、私は松下政経塾出身の政治家は嫌いである。彼らにMBAホルダーと同じ臭いを感じるからである。加えて、若い以外に取り柄のないあんちゃん・ねえちゃん政治家も嫌いである。政治家としての第一条件はまず「浮き世の苦労を体感していること」である。その意味で、彼らには政治家たる条件が備わっていないと思うからである。
 MBAについて敷衍する。現行ビジネススクールが批判されるのは、ミンツバーグによれば、経営はクラフト(=経験)、アート(=直感)、サイエンス(=分析)が三位一体となってはじめて機能するはずのものであるのに、そこではサイエンスしか教えられていないからだということだ。経営を学ぶためには、基本的に座学(ケース・スタディも含む)では限界がある。クラフトは時間の関数であるし、アートは感性の問題であるからだ。
 こうした三位一体は経営の世界のみならず。政治においても同じことであろう。政治は「普通」の生活の延長であるはずのものだ。その意味で、普通の生活を「経験」しない政治家は言語道断である。彼らに国民や生活や世界について語る資格はない。浮世の苦労を「経験」してはじめて、他人の痛みを理解出来るのである。経験が全てとは言わないが、少なくとも経験なき理想主義は、童貞・処女のセックス妄想と同じことである。
 前原さんにもそうした印象が付き纏うということだ。だから前原さんは心を打たないのであろう。彼は学生時代数学と物理がとりわけ大好きだったようである。もしかしたら彼の思考過程・論法もそのことに影響があるのかもしれない。亡くなった宮沢元総理は「政治は論理である」と主張して憚らなかった人である。宮沢さんの頭のよさは極めつけである。経済通として自他共に認め、政治家としての矜持も立派であった。だが彼の経済学に国民は存在しなかった。そして宮沢さんは、彼をよく知る人からより煙たがられた。石田三成なども同じことであろう。
 宮沢さんはまだ官僚としての生活を経験している。だが官僚育ちでは、普通の生活経験という点では不充分であった。前原さんはなおのこと政治家の人生しか知らないわけだ。前原さん個人がこれから政治家として大成するかしないかに興味はない。だが折角実現した政権交替である。蟻の一穴で瓦解してしまっては困るわけだ。