八つ場ダムへの「待った」と都市博中止

 民主党マニフェストについては本気ですべて実行するのかと、本欄で何度も書いてきた。いよいよ政権奪取が実現し、今後は、具体的に個別政策の実行の是非が問われることとなる。そうした中で、早速、八つ場ダムの建設中止問題が耳目を集めている。そもそも必要性の低いダム建設を時の政府がゴリ押ししたのだとしても、実際に建設が着手され、総事業費4600億円中08年度までに3210億円を支出し、地域住民も新たな生活に向けて再出発の準備を整えているわけである。
 これは予算上は、これまでに支出した3210億円とこれから支出される1400億円の比較考量の問題である。しかしそれよりも何よりも配意しなければならないのは、不承不承ダム建設を応諾した住民の感情である。テレビのインタビューに答えて、住民の一人が「政権が変わったからといって、情勢が一変するのは納得出来ない」という趣旨の発言をしていた。ことの是非は兎も角として、わが身がそうした状況におかれれば、確かに、政治に翻弄されるのは辛抱堪らないと思う。八つ場ダムは氷山の一角であり、今後こうした問題がぼこぼこ噴出すことは間違いない。
 ところで八つ場ダムの中止問題は、青島都知事世界都市博中止問題を思い起こさせる。青島さんは都市博中止を公約に掲げ、1995年の選挙で当選した。そして公約どおり、都市博を中止した。しかし一方でその中止によって、1000億円に上る損失を都民は負うこととなってしまうのである。当時青島さんに清き一票を投じた都民も、その多くが本当に中止するとは考えていなかったようである。都民は鈴木都政に倦んでいたのであり、青島さんの公約をまともに支持したわけではなかった。結局青島さんについては、都市博を中止した知事としての記憶が残るばかりである。
 民主党小泉改革の痛みを払拭あるいは緩和することを期待されて誕生した政権である。それが八つ場において、住民の痛みを加速するのはなぜか。民主党大義が本当に「国民生活第一」にあるのだとすれば、それに照らして政策の修正すべき点は躊躇うことなく修正されなければならない。頑なに、そもそも合成の誤謬を揶揄されるようなマニフェスト墨守する必要はない。私が八つ場ダムに拘るのは、一事が万事だからである。「大義」が憲法、「個別政策」が個々の法律とすれば、個別政策が大義に反するとすれば、それはすなわち憲法違反である。
 民主党が自ら掲げたマニフェストに酔い、それを馬鹿正直に実施することとなれば、青島さんと同じようなことが起きてしまう。民主党が、八つ場ダム建設を中止しただけの政権であっては困るのである。重ねて言うが、国民は民主党マニフェストに一票を投じたわけではない。決して、それをそのまま実施することなど望んではいないのだ。
 民主党に望むのは、国会の場で野党と正々堂々と政策論議をして欲しいということである。正々堂々と議論を戦わせる中で、自らが掲げる政策の間違い・不足する点も出てくるはずである。議論を尽くした結果修正すべき点が出てくれば、修正を羞じてはいけないということである。
 何度も言うとおり、武士に二言、男に二言はあってもいいのである。武士に二言はないとか、男に二言はないなどと見得など切るから、引っ込みがつかなくなるのだ。小学校の学級会でわれわれは学んだではないか。結果多数決に依存しなければならないこととなっても、議論を戦わせ、少数意見との妥協点を模索する対応が懸命に図られなければならないことを…。
 よしんば自公政権下の政策と同じものになってしまったとしても、その決定過程に一線を画することが出来れば国民は納得するのである。八つ場ダム戻れば、大義名分とは別に被害者である住民の意思を充分に確かめ、中止するにせよ継続するにせよ、その意思決定過程とその判断理由を国会の場で丁寧に国民に向けて説明することだ。
 繰り返すが、マニフェストに書いたから国民のお墨つきをもらったと考えるのは、極めて短絡的な発想である。国民は民主党をそこまで信用しているわけではないし、全権委任を与えたつもりもない。何よりも排除しなければならないのは、硬直性である。説明が立てば、ブレてもいいのである。それが民主主義だとわれわれは習ってきたはずではないか。