修学旅行生との出会いからの改心

 この記事を書くのは実に久しぶりである。少し時間が経ってしまったが、この連休中は以下の本を読んでいた。
  1.野上忠興安倍晋三 沈黙の仮面 −その血脈と生い立ちの秘密ー』小学館 2015年11月
  2.岸井成格『議員の品格』マイナビ新書 2016年6月
  3.岸井成格佐高信『偽りの保守 安倍晋三の正体』講談社+α新書 2016年7月
  4.佐高信・浜矩子『どアホノミクスの正体』
  5.菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書 2017年3月第9刷(修正版)
 安倍さん流に言えばいささか品のないタイトルもあるが、いずれもさもありなんという情報が提供されており、得心するところが多く、したがって読後の満足度は高かった。これらの本から題材を拾えばいくらでも記事は書けたのだが、森友、加計、憲法共謀罪と次から次に国会がスキャンダラステックな展開となってしまい、すっかり意欲が殺がれてしまったのだ。安倍さんの国会答弁は馬鹿の一つ覚えで、「印象操作」「内閣支持率が高い」「だから民進党はダメなのだ」というセリフを繰り返すばかり。まともな答弁は皆無である。加えて、「憲法改正提案の詳細について知りたければ、読売新聞を読め」発言。元来保守派の”私”であるが、この3月に読売の購読中止にしたばかりで、そのインタビューは読みたくても読めなかった。残念至極である。読売を止めたのは少し早まったかもしれない。しかしながらこれだけ踏んだり蹴ったりされても、内閣支持率は一向に下がらない。どういうマジックが働いているのであろうか。不思議でならない。あれやこれや考えているうちに、すっかり意気消沈。記事が書けなかったということなのだ。
 ところで少々話題を変える。今朝出勤途上の上野駅で、修学旅行に出かける小学生に出くわす経験をした。そして彼らは如何にも楽しげに、窓越しに一生懸命懸命微笑み、手を振って来た。普段から仏頂面で子供に好かれない自信を持つ”私”は、俄かにはそれが私に向けられたものだとは思わずに、つい後ろを振り返った。しかし誰もいない。そこで私も目一杯の笑みを作って、手を振り返した。列車が発車するまでの束の間の交流であった。
 あの子たちは私の孫の世代である。ベタながらこれからもあの微笑みを忘れずに、幸せな人生を送って欲しいと心底願わずにいられない。だが翻って安倍さん。彼の施政下で、彼らの幸せが守られるだろうかと言えば、やはり大きな疑問である。最低限「おかしいことはおかしい」と言える世の中でなければ、われわれは幸福に暮らせない。今朝の名も知らない小学生と出会いによって、やはり今後も老骨に鞭打って「おかしい」ことはおかしいと言い続けなければならない。貧者の一灯ながら、その決心を改めて固くしたところである。
 

安倍さんというリーダーを戴いて

 安倍さんという人はどういう人なのであろうか。彼の人格探訪には、野上忠興安倍晋三 沈黙の仮面−その血脈と生い立ちの秘密−』が参考になる。野上忠興さんは元共同通信の記者で、安倍さんの父君である晋太郎氏の番記者でもあったということだ。同書から以下の三点を引用してみたい。
 第一、「大学時代の安倍兄弟を教えた教授が10年ほど前、筆者の取材に手厳しく語ったことがある。<安倍君は保守主義を主張している。それはそれでいい。ただ、思想史でも勉強してから言うならまだいいが、大学時代、そんな勉強はしていなかった。ましてや経済、財政、金融などは最初から受け付けなかった。卒業論文も枚数が極端に少なかったと記憶している>」(P60)
 第二、「その頃、晋太郎は筆者(野上)に<晋三は政治家に必要な”情”というものがない。あれでは、まだまだ駄目だなあ>と漏らしたことがあった。今になり、その言葉がよく思い出される」(P116)
 第三、「安倍は、自分が正しいと信じる考えと違う意見を言われると、反射的にキレて黙っていられなくなり、猛然と反発するシーンが目立つ」(P55)
 以上を整理すると、第一からは、安倍さんの決して”学ばない”ことの姿勢、第二からは、元来”情がない”ことの気質、第三からは、明らかに”器量がない”ことの証左が窺われると言っていいであろう。こうした三つの特質は、今回の森友問題を巡る国会答弁で改めて国民の前に曝け出された。
 第一については、安倍さんは、本当に言葉の意味を熟知してお使いになっているかどうか定かではないことが多い。しっかり深いところで学ぶ習慣がついていればそんなことはないはずなのだが、例えば、”私人””忖度””悪魔の証明”などの言葉を不用意にお使いになるから、あっさり墓穴を掘る結果になってしまう。”悪魔の証明”を引用して、「なかったことを証明するのは困難」などとぽんと仰られると、「冤罪はどうなのか?」と突っ込みたくもなる。
 第二については、菅官房長官と同期をとった、総理夫人付・谷査恵子さんの非情な切り捨て。報道によると、今のところ谷さんの処分まで考えていないということのようであるが、これはそもそもおかしい。任務の中で独断でこうした対応をしたのだとすれば、まずその権限が確認されなければならない。権限違反が確認されれば、論理的な帰結として厳正な処分が図られて当然である。「指示がないのに勝手にやった」という言い方は、それだけ非情であり危険なのである。
 第三については、安倍さんの場合、これは本当によく目につく。すぐにキレて質問者を恫喝するシーンをわれわれは何度も何度も目撃している。こうしたリーダーを仰がなければならないことの羞恥は、アメリカのトランプさん、韓国の朴槿恵さんを笑っていられないであろう。笑う笑わないはともかくとして、要は、安倍さんには知と徳の感じられないことが問題なのだ。
 森友問題を巡る国会中継、報道において安倍さんの対応ぶりを毎日毎日嫌というほど見せつけられるにつけ、つくづく意気消沈してしまうのである。

安倍さん、流石にもう無理ではないでしょうか?

 今回の森友問題はまこと面妖である。右翼仲間の安倍さんと籠池さんがもともと二人仲良くしてたのに、風向きが変わることによって、すっかり臍を曲げた籠池さんがノンフィクション作家・菅野菅さんの登場によって宗旨替えし、あろうことか、共産党をはじめとする左翼勢力の支援を結果的に仰ぐ運びとなったわけだ。籠池さんがまこと筋金入りのライトであれば、こんな分かりやすい方向転換は図らなかったのではなかろうか。またとりわけ23日の証人喚問以来、世間の風潮が変わってしまい、籠池さんが悲劇のヒーロー扱いされる傾向もあるが、それはそうではない。この問題の発端は、飽くまでもないない尽くしの籠池さんが、過度に政治力を利用しつつ、そもそも無理な小学校の開設を目論んだことである。小学校どころか既存の幼稚園さえもこのままでは破綻し、残るのは借財ばかりということであるが、このことに同情は出来ない。籠池さんは、通常の”善良”な国民とは異なるルートで事業の完遂を企図したわけである。その点は決して見失ってはいけない。籠池さんはグレーなのである。ホワイトではない。
 そうした脈略の中では、安倍ご夫妻とりわけ昭恵夫人は被害者であるとも考えられる。昭恵夫人は典型的なお嬢様育ちであり、そうした出自にありがちな、きわめて善意の人であるのだろう。これは無論想像であるが、昭恵夫人のそうした性向を見抜いた人物が徹底的にしゃぶり尽くそうと考えても一向におかしくない。夫人を通じて、安倍晋三記念小学校の創設を持ち上げ、自らは名誉校長に祭り上げられる。少しでも世故に長けていれば、ここで何かおかしいという危険信号が鳴るはずなのだが、お嬢様かつ善意の人である昭恵夫人にはそうした危険信号は鳴らなかったのであろう。
 だからこそ昭恵さんは、夫人付きとされる谷査恵子さんを通じて、照会事項に対して懇切丁寧に対応したのであろう。これは善意以外の何物でもない。本当に優しくて親切な人であることの痕跡が伺える。彼女と直に接した人たちは彼女の人柄に魅了されるということであるが、そのことは容易に想像がつく。彼女のように只管善意の人が足を掬われる世の中は勿論望ましいものではない。しかしながら、昭恵夫人はご存じないであろうが、世の中は善意に満ち溢れているわけではない。籠池さんは自らを善意の人と定義するのであろうが、彼のような人物は巷に溢れ返っている。そうした陥穽に嵌ってしまったのが、今回の問題の本質といってよいのではなかろうか。
 安倍さんは日本国の押しも押されもしない総理大臣である。その総理大臣の夫人がいとも簡単に悪意に満ちた人物に利用されてしまう。そのことが問題なのだ。カネをもらったとか、カネをやったとかは有体に言えば大した話ではない。今回の話も高々8億円のディスカウントにすぎない。そんなことより何よりも、利用しようとする勢力に赤子の手を捻るように付け込まれてしまうことが問題なのだ。そのことが私は怖くてならない。
 安倍さんはどうお考えになっているかは分からないが、それだけで万死に値する。すなわち夫人のコントロールを含めて、それが十分でない総理にこれからも政権運営を託することは出来ない。リスク管理能力に疑義のある総理に全権を託すことはもう限界である。やはり安倍さんには、名誉ある撤退を求めるのがご本人のためにも、最善の選択であろう。これ以外の選択肢はない。

経済三流、政治五流 −昭和は遠くなりにけり−

 政治の劣化が止まらない。毎度お馴染みの国会”森友劇場”で、連日追及にあっている稲田防衛大臣が、「籠池理事長との関係を全面否定して来た」答弁が虚偽であることが明らかになった。これに対して野党は防衛大臣の辞任を求めているが、安倍さんは全面的に彼女を庇いだてする構えのようである。今回の話は難しい話ではない。森友学園と弁護士時代に関わりがあったのであれば、それを事実として認めればいいだけのことであった。それを無用な隠し立てをするから、疑惑が大きく広がってしまう。稲田さんの答弁はちょっと調べれば分かることである。国会の場でこうした明らかな作為の嘘で答弁するのは、はなから国民を馬鹿にしているからだ。安倍さんはその彼女を支持しているわけだ。国民はそのことをもっともっと重視しなければならない。
 80年代に、わが国は諸外国から「経済一流、政治三流」と言われていた。しかし四半世紀に及ぶ経済の低迷、加えて最近では名門東芝の破綻危機。経済は明らかに三流以下に低落した。一方の政治は小泉さん、安倍さんが登場して以来三流どころか、五流と評価されてもおかしくない状況である。安倍さんは答弁に詰まると、よく「情報操作を止めなさい」と仰る。彼は、小泉直流でイメージ=情報操作で勝ち上がって来た人である。だからこそ当たり前の質問も情報操作に映るのではないか。自民党規約の改正により、総裁任期が3期9年まで延長された。安倍さんご本人はこの9年の任期を全うする意向のようであるが、本当にそうなるであろうか。こんな茶番を繰り返し、幼稚なレトリックでの強弁に終始ばかりしていては、野党どころか自民党内部から足元を掬われても何ら不思議ではない。安倍さんのおやりになっていることは、民主主義国家におけるワンマン政治である。独裁国家における金正恩と何ら変わらないばかりではなく、わが国は民主国家であるだけに余計質が悪いとも言えるだろう。
 政治の劣化は国民が悪いの勿論である。だがもっと悪いのはマスコミである。小泉さん、安倍さんのインチキ性を敢えて見抜かず、面白おかしく権力にすり寄ることしかしない。ここには報道の矜持など微塵も感じられない。小池さんの問題も同じである。彼女をジャンヌ・ダルクに見立てて先棒を担ぐばかりで、問題の本質に迫ろうとしないし勉強のあとも見られない。八つ当たり序に言わせてもらうと、政治評論家なる方々の悪行ぶりも目に余る。とくに某通信社解説委員の発言は聞くに堪えない。安倍支持はいいが、支持の理屈が通らない。こうした評論家を使うのもマスコミであるし、彼自身通信社の雇われ人である。こんなことでいいはずはない。細川隆元藤原弘達細川隆一郎三宅久之さんらは鬼籍に入られて久しいが、彼らは思想信条は別にしてご意見番として、時の政府にも堂々と毒づいていた。「昭和は遠くなりにけり」である。
 

シャッポは軽くてパーがいい

 森友学園をめぐる不毛な議論が続いている。混迷の主因は、安倍さんが一貫して「私も妻も悪くない」を強弁しているため。多くの国民は、ジバン・カンバン・カバンに恵まれすぎた時の総理が、このようなちまちました利権漁りをしているなどとはよもや考えてもいない。安倍さんに対する野党議員の追求は意訳すれば、為政者およびその伴侶がなぜ「李下に冠を正さず」「君子危うきに近寄らず」の大原則を守れなかったのかという一点に尽きる。そうした意味では私は、安倍ご夫妻と、同学園の払い下げ価格、超右翼的教育の問題は切り離してもいいのではと考えている。
 ところで昭恵夫人は昨日イベントに登場し、第二次安倍政権になってから、夫人自身「なぜか忙しくなった」と仰ったようである。安倍政権が長期政権化する見通しのなか、これを利用しようとする輩が夫人にもすり寄って来るのは、浮世の義理として当然のありようだ。いくらお嬢様育ちであっても、少し想像力を働かせればそんな単純なことが分からないはずがない。分からないのだとすれば、言語道断であろう。
 森友問題の追求が国会でもマスコミでも風雲急を告げているさなか、彼女は、なぜこうしたイベントに登場しなければならなかったのであろうか。とても不思議である。自らの軽率な行動・言動が安倍政権を揺るがす事態になるかもしれないこの時期、普通に考えれば、主宰者とどんなしがらみがあったとしても、イベントへの登場など当然のこと自粛して然るべきであった。これは庶民の常識である。
 一方安倍さんは自らが矢面に立って批判に晒されると、異常に興奮して俄かに強圧的になる。これは今国会で何度も目にするところである。私はもともと安倍総理にその資質そのものに疑義を抱いて来たが、森友問題が顕在化して以降、その感をますます強くしている。安倍さんは、祖父も大叔父も総理経験者、父親も有力な政治家、加えて夫人は森永の創業者一族ということで、第一級のプリンスである。しかし安倍さんがおやりになって来たことは、ここではこれ以上指摘しないがクエスチョンマークだらけである。
 そうした安倍さんが再び総理・総裁の座に返り咲いたのは、基本的に人材不足ということもあろうが、小沢一郎さんがかって仰ったように「シャッポは軽くてパーがいい」という力学が働いたからではないのかと勘繰りたくもなる。支持率の高さから安倍さんは、盤石の基盤に立っているとお考えかもしれない。しかし政界は一寸先は闇。今日の友は明日の敵。オセロゲームでもある。上手の手から水が漏れると、盤面が一挙に変化してしまうことは十分にありえる。世界中の顰蹙を買いながらもトランプさんとの会談を強行し、得意満面のニコニコ顔でいても先は分からない。数に奢ってわが世の春を謳歌していても、たちまち冬将軍に襲われる展開だってありえるわけだ。最近の安倍さんの行動を見ていると、つくづくそう思わざるをえない。杞憂に過ぎればご同慶の至りである。

ファーストレディーの資質

 総理夫人の安倍昭恵さんが、連日国会やマスコミからの集中砲火を浴び、心情的には少し可哀想な気もする。テレビを通じてしか存じ上げないが、お嬢さん育ちで世間知らず、性格は多分に優しい人。そしてフランクで真っ直ぐ。そう見受けられる。安倍さんは当然彼女のカバーに回っておられるが、未だ万人が納得する説明責任は果たしていない。
 こうしたなかで目下、国会での安倍さんの不用意な答弁もあって、巷では総理夫人は公人か私人かを巡る論争が喧しい。これまで分かったのは、総理夫人の制度的役割が明定されていない。しかし事実として夫人には経産省2名、外務省3名、計5名の補佐官(秘書)が派遣され、その活動が補佐されている。こうした脈絡のなかでは、公用車も比較的自由に利用出来る立場にあるものと推測される。焦点が少しずれてしまかもしれないが、体面を保つために官僚OBが最後まで拘るのは”事務所””秘書””車”の三点セット。こう考えると、総理夫人は官邸を含めて、そうした三点セットを享受する立場にあることは間違いない。すべて税金で賄われているわけであり、ここでは公人か私人かの議論などは無意味なことになる。大事なことは、総理夫人は、”公人”としての活動か、”私人”としての活動かの明確な線引きもないままに税が使えてしまうということだ。
 また歴代総理夫人のなかで、昭恵夫人の社会的活動は群を抜いていることのようでもある。とすればこれまでと比べて、安倍政権になって以降、格段に夫人に係る税金の費消が増大しているということであろう。活動が目立たなければ、ネグリジブルということもあり得よう。だが、少なくとも補佐官的役割の官僚が5名も割り当てられているとすれば、ネグリジブルなどとはとても言っていられない。総理夫人の公的活動を公に認めるのであれば、今後、活動の範囲、予算などを明示的に議論する必要が出て来る。
 ここまで見て来て分かったのは、総理夫人の活動は税金を使う場面がありながら、その活動は基本的に野放しであるということだ。だから今回のように、不適切な機関と不適切な関係を結んでしまう危険性が高じてしまうのだ。当然のことであるが、総理夫人は、自らの個人的資質、信条とは別に、国および国民の利益に反する行動は制約されるのが当たり前である。戦前への歴史的猛省から、教育勅語的なものを否定し、今日の民主主義国家を綿々と築いて来た戦後の歴史を、われわれ国民は共有している。この好例が天皇家であろう。にも拘わらず、”超”右翼的思想に基づいて運営される幼稚園の名誉校長を軽々に引き受けることなどは、まったくあってはならない椿事である。
 昭恵夫人聖心女子専門学校を卒業されたあと、2011年3月に立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科修士課程を修了し、修士号を取得されたそうである。このようにしっかり勉強されたのに、どうしていとも簡単に今回のような教育勅語の陥穽に落ち込んでしまったのであろうか。立教の大学院では、社会デザインの根幹に「戦前思想を据えたい」と考えているのかとまで勘ぐってしまう。昭恵夫人は専門学校卒であり、大学教育を受けていない。大学卒でないのに修士号を取得されたのだから、よほどの秀才なのであろう。にも拘わらずということで、本当に首を傾げざるをえない。昭恵さんどうしちゃったのでしょうか。
 以下は一般論である。一国のファーストレディーの資質としては、何をさて得おいても自らの思想・信条とは別に、オーソドックスなインテリジェンスを保持することが求められなければならない。今回の森友学園のように、幼児に「教育勅語を唱和させる」ような幼稚園には通常のインテリジェンスが働けば、為政者の妻として近づかないというのが常識であろう。今回の事件は国内問題であり、日本的風土における相も変わらない政官・支持者間の癒着構図である。見方によれば、大した話ではないとも見られる。しかしこれが、首脳外交のっ場面で持ち上がった事件であれば、如何であろう。この一連の騒動が示唆するのは、総理は勿論のこととして、夫人も相応のインテリジェンスを持たなければ甚だしく国益を損ねてしまう可能性があるということだ。現在国会やマスコミで問題となっていること以上に、政治の貧困が映し出されているということなのである。

興味深かったアカデミー賞授賞式

 アカデミー賞授賞式をリアルタイムで見ていた。最後の最後。作品賞の発表には本当に驚いた。下馬評高い”ラ・ラ・ランド”の受賞ということで一旦プレゼンテーションされたものが、三人目の喜びのスピーチの最中に訂正が入り、結局は”ムーンライト”が正しい受賞作品ということになってしまったのだ。私は”ラ・ラ・ランド”も”ムーンライト”も両方とも見ていないので、何とも言えないが、とにかく受賞の取り違えは前代未聞の出来事であった。
 もともとハリウッドの俳優陣は政治的信条を明確にする者が多い。今回のアカデミー賞においても、予めトランプさんとメリル・ストリープさんのバトルがとりわけ喧伝され、そもそも最初から雲行きが怪しかった。そこに今回の作品賞取り違え事件。憶測が憶測を呼んでいる。昨年の同賞受賞は主演男優賞のレオナルド・デカプリオさんをはじめとして、受賞者および受賞作品はことごとく白人オンリーであった。
 それが今回の受賞主要部門では、ちょうど白人関係と黒人関係と受賞が二分している。ハリウッド俳優の皆さんはリベラルの旗手が多いとして、それはそれで構わないのかもしれない。しかし白人映画の”ラ・ラ・ランド”が黒人映画の”ムーンライト”に土壇場でとって変わったのだとしたら、トランプさんを笑ってはいられないでのはないか。これはアフォーマティブ・アクションに代表される逆差別ではなかったのではなかろうか。そうであるとすれば、”ムーンライト”の関係者も浮かばれない。
 今回のアカデミー賞授賞式はとてつもない醜態を曝け出したわけである。このことはエンターティメントが必要以上に政治と関わると、本来的な意義が損なわれるという好例であるように思われる。映画ファンの大多数は思想信条よりは、純粋に映画を楽しみたいということであろう。ここに政治が持ち込まれれば、只管シラケてしまう。