『逝きし世の面影』にインスパイアされて

 渡辺京二『逝きし世の面影』をやっと読み終えた。ハードカバーで菊判500頁に及ぶ大作である。だが扱われるテーマが非常に興味深かったので、読後の疲労感はない。
 この本では、主として外国人から見た幕末・明治初期の日本社会と日本人に関する素描・考察が取り上げられる。外国に関する見聞録はある意味危険である。われわれも海外に行って経験することであるが、出会った人、出会った光景、出会った食事などが、自分に合えば好印象を持つし、そうでなければ滅茶苦茶な印象となる。また書き手のインテリジェンスの問題もある。後者については兎も角として、前者については人間はそれまで生きて来た生活史から、何らかの予見を必ず持っておりそれから完全に自由になることはない。そうした限界を周知しなければならないということだ。
 著者の渡辺さんはその点慎重である。勿論完全を期すことは望むべくもないが、原著者の経歴・思想・拠って立つ基盤等にも目を凝らし、可能な限りの真正性が追求される。そうしたところから、単なる見聞の紹介に止まることなく、信頼を寄せるに足る高感度の極めて高い作品となっている。
 この中で渡辺さんが伝えたかったのは、徳川封建時代を全否定した「明治以降の史観」の単なる“否定”ではない。西洋史観が導く「絶対君主と抑圧された人民」という構図を正面から否定するのではない。そこで形成されていた社会、そこで生きていた人々とその生活・心情等をありのままに紹介することが渡辺さんの企みなのである。史観を問う論争の書ではないのである。
 こうした試みのひとつとしては、石川英輔さんの一連の作品が有名である。石川さんは主として江戸時代の真相を追究する作家である。作品には小説として、『神仙伝』を始めとする一連の「大江戸」シリーズ、ノンフィクションとして、「大江戸テクノロジー事情」「大江戸生活体験事情(田中優子さんとの共著)」等多彩である。こうした作品を通じて石川さんが行っている仕事は、維新後定説化してしまった徳川暗黒時代の見直しとその全うな評価である。石川さんの場合も、渡辺さん同様、史観への挑戦などという“しゃっちょこばった”話などではなく、自らの研究からありのままに江戸時代を捉え、それを伝えたいということである。
 渡辺さんに戻る。渡辺さんは同書の中で、外国人が見た日本人の好ましくない点として、①嘘つきであること、②好色であること、③宗教心が薄いこと、④他人の痛みに同情心が少ないこと、⑤他の迷惑を顧みず騒動すること等々、を指摘する。一方、好ましい点としては、①皆が何時も幸せそうであること(世界中で一番幸福な下層民)、②自然との共生が見事であること、③好奇心が強く親切であること、③着る物の趣味がよいこと、⑤子供を大事にすること、⑤乞食が見当たらないこと、⑥女性が自由で伸びやかであること、⑦いかなる場合もユーモアのセンスを忘れないこと、⑧年配者が大事にされること等々、こちらは枚挙に暇がない。
 これは渡辺さんの意図が働いているということであるかもしれないが、好ましくない点より、好ましい点の方が圧倒的に多い。私は外国人から見て、あるいは現代の日本人から見て、好ましくても好ましくなくても構わない。好ましい点もこ好ましくない点も須らく真実と考えるからである。
 好ましいとか好ましくないとかの判断は、判断する人物の生活史に依存する部分の大きいことは間違いない。ひとつの現象が、ある人には好ましく、ある人に好ましくないことは多々ある。したがってそんなことはどうでもよい。私が注目するのは、渡辺さんの予見が多少入っているにしても、概して外国人から見て、江戸時代の日本人は一様に幸福に見えると感じたことである。
 欧米の先進文明を尺度とすれば、日本は文化果つる地であった。欧米では文明の発達が人々の幸福を保障することを信じて疑わなかったはずである。そうした尺度で見れば、未開人より自分たち欧米人の方が幸福であって然るべきである。にも拘らず、もしかしたら文明人である自分たちの方が幸福でないのかもしれない。これは現代のわれわれ自身がアせる業であるのかもしれない。
だが幸福が、発達した道具、装飾品、蓄積された富などの増加関数でないことは普遍的な事実である。お金持ちが本当に幸福だろうかなどというと、子供じみた議論になってしまうかもしれないが、100年に一度の経済危機という認識が真に堅いのであれば、そうした子供じみた議論を再考することもわれわれの知恵であろう。
 ワークシェアリングが本格的に導入されるとすれば、これは「自分だけがよければよし」とする考え方の大いなる修正である。極貧国は兎も角として、われわれ先進国には蓄積された富と高い生産水準が維持されているわけである。高い生産水準を有するということは、工夫をすれば1億3千万人の国民の悉くが飢えなくて済む可能性を持っているということである。
 上杉鷹山二宮尊徳が経済危機を乗り切ったのは、要するに相互扶助の精神である。国全体の高い生産能力を前提とすれば、少なくともわが国においては経済危機などあり得ないと言ってよい。危機となり得るのは、今までの生活水準を変えたくない、他より少しでも分け前を多くしようと考える輩が横行するからである。江戸時代のわがご先祖様たちがなぜ幸福に生きることが出来たのかよく考えなければならない。
 それにしても米国という国はつくづく呆れ果てた国である。17兆円もの公的支援を受けて首の皮一枚で繋がったAIGで、幹部73人に平均1億円のボーナスを払ったという”事件“は全く開いた口が塞がらない。弁護士は法律的には仕方がないことだと抗弁しているそうであるが、実質破綻した会社からボーナスを受け取るのは、火事場泥棒以上に性質が悪い。
 こうした資本主義が世界のお手本になるはずがない。われわれは今こそ、こんな馬鹿げたシステムを崇拝し切って天に恥じなかった不明を恥じなければならない。100年経ってわれわれの子孫が、今のわれわれをご先祖様としてどう評価するのか。結論は言うまでもないことであろう。