サムライ・ジャパンと日本型資本主義

 サムライ・ジャパンが5度目の韓国戦を制して、再び世界一の座についた。第1回の時の優勝は韓国に負け越し、米国のチョンボに助けられた優勝であった。そうしたこともあって、当時日本の野球は米国筋から「スモール・ベースボール」と揶揄され、概してあまり高い評価を与えられなかった。
 スモール・ベースボールの意味は、「ちょこまかとダイナミックさを欠き、したがってスケールが小さく、取るに足らない野球」というほどの意味であろうか。
 しかし今回は、世界の米国、キューバを正々堂々と撃破し、宿敵韓国にコールド勝ちを含めて3勝2敗と勝ち越した末にもぎ取った優勝である。例えスモール・ベースボールと言われようが何と言われようが、日本のスタイルを貫いた上での大勝利である。天にも地にも恥じることはない。
 今回の日本代表の特徴は、第一に、基本的に攻走守三拍子揃った選手を選出したこと、第二に、投手陣を充実させ守りを優先させたこと、第三に、個人プレーよりチーム・プレーを優先させたこと、第四に、各人が外連味のないプレーで溌剌と楽しんでいたこと、第五に、指揮官が泰然自若とした態度で選手の信頼を獲得していたこと、等々枚挙に暇がない。「最近の若い者は…」というのは年寄りの常套句であるが、私は「最近の若い者は“凄い”」と掛け値なく評価したい。この頃の若い者は世界に出ても臆せず成果を挙げる。だらしがないのは、われわれ父親の世代である。
 それと一番肝心であるのは、選手が品格のあるプレーに徹していたことである。城島選手が審判を侮辱したということで退場になったケースはあったものの、悉くが際どい審判結果にも逆らわず、予選第2ラウンドで受けた韓国の非礼も激することなく淡々と受け止め、やるべきことに集中する姿は正に品格を感じさせるものであった。
 また決勝戦に先立つセレモニーで王前監督が優勝杯を返還した後、脳梗塞の後遺症からグラウンドの儀式に参加出来ずベンチに一人残る韓国金監督の下に足を運んだ時の、同監督の感極まった様子も忘れることが出来ない。王さんの徳にサムライ・ジャパンの品格の粋を感じたのは私だけでないであろう。第2ラウンドの韓国勝利後にマウンドに立てた国旗を、韓国の人たちはあの時心の底から恥じたのではなかろうか。
 翻って、スポーツは人為的に作られたルールの中で勝負を競う。これは経済の世界も同じことである。国内においても国外においてもルールが無ければ、不正義と不公正が横行し、世界はカオスから一向に脱却出来ないこととなる。経済の世界にも絶対にルールが必要である。
 ただ問題なのは、同じように資本主義を標榜したとしても、一定のイデオロギーに与するルールをグローバル・スタンダードとするような考え方は非常に迷惑であることだ。例えば市場原理主義を絶対視し、会社運営において頑なにストックホルダー・カンパニーしか認めない態度は厳に批判されなければならない。
 会社運営には、他にも伝統的にステイクホルダー・カンパニーの考え方があった。しかしながら市場原理主義の下、ストックホルダー・カンパニーしか認めないというのが、世界経済危機勃発前の大方の風潮であったわけだ。
 ストックホルダー・カンパニーかステイクホルダー・カンパニーかというのは、選択の問題である。市場原理主義のもっともいけないところは、それをグローバル・スタンダードとすべく画策したことである。こうした功罪についてここでは深くは触れないが、ためにするために世界経済をそれ一色に染めようとした罪は重い。
 サムライ・ジャパンに戻る。サムライ・ジャパンの偉いのは、スモール・ベースボールとの謗りに耐え、野球は決して米国型だけではなく、日本型のあることを世界に示したことである。未だに巨艦・大砲主義の米国に対して、ミサイル艇魚雷艇を駆使して戦う戦法も有効であることを示した点である。
 これはどちらが良いとか悪いということではなく、持てるヒト・モノ・カネの資源の制約に依存する選択の問題であろう。例えば、体格面で劣る日本が米国の真似を出来ないことは当然である。また単に体格が良くても、格好良いわけではない。サムライ・ジャパンの面々は体格で劣っても、スリムに鍛え抜かれた身体は逆に格好良かった。
 一国の社会制度の形成には「経路依存性」ということが言われる。これは同じ資本主義経済という形を採っても、その国が経て来た歴史・文化・風俗・習慣・国民性などによって、ヴァリェーションが生じるということである。
 グローバル・スタンダードの美辞麗句の下、こうしたヴァリェーションを一切認めずに制度統一を図ったのが市場原理主義であった。米国が世界経済の進歩に貢献して来た“功”は認めるとしても、自分たちの進む道が絶対的に正しいと他に押し付ける行為はやはり許されることではない。
 いずれにしても今後世界経済秩序の回復を図る中では、共通ルールは最低限にして各国の特殊性を認めるべきであろう。少なくとも、自らが作ったルールを絶対的に正しいものとし、それに従わなければ制裁を加えるという態度はいかなる国であっても認めないという強い意志が大事である。中東問題なども、超大国のある意味「無邪気な善意?」が解決を遅らせていることに思いを馳せるべきである。