ビネスホテルとグローバルスタンダード

 先週は沖縄に出掛けたことを書いた。このところ公私取り混ぜて旅行に出ることが多い。昨年は5月に山形・赤湯温泉、8月に富士・朝霧高原、9月に札幌、11月に福岡、12月に鹿児島、神戸、本年に入ってからは1月に長野、札幌、3月に沖縄、甲府と出掛けた。
 そして宿泊場所は公私に関係なく都市部ではビジネスホテルに決めている。最近のビジネスホテルはアパホテル、ドーミーインなどでは温泉もしくは大浴場の設備を備え、ベッドも広い場合が多く、実に快適だからである。
 今週宿泊した甲府のドーミーインなどは、屋上に露天風呂付きの温泉施設を持ち、ベッドもセミダブルの広さがあり、またデジタル放送を受信する液晶テレビやインターネット接続ケーブルも完備し、一人でいても全く退屈しないで済んだ。
 さらに言うならば、ビジネスホテルのバスルームは極めて狭い場所に洗面台、バスタブ、便器が押し込められているケースが大半であるが、甲府のドーミーインでは洗面台が独立させ、バスタブ抜きのシャワー設備のみにしたために、便器周りがゆったりとレイアウトされており実に快適であった。
 大浴場がなくてもビジネスホテルで湯船に浸かることは多分稀である。少なくとも私はビジネスホテルの狭いバスタブに浸かった経験はない。にも拘わらずそうした余分なスペースが席捲し、用を足すのにも非常に不快であった。それがここではそれが改善され快適感を醸し出していたということだ。
 私は以前に仕事の関係で海外に出掛けることの多い時期があった。そうした場合宿泊ホテルは5つ星は兎も角、大体4つ星が多かった。私はこれらの高級ホテルの雰囲気が好きで、ホテルをチョイスすることも楽しんだ。だが折角高級ホテルにステイしても、根っからの貧乏性のせいか、これを充分に活用することは出来なかった。高級ホテルの真髄は施設・設備よりそのホスピタリティーにあるわけだが、後者の活用が不充分ということである。
 多分これは私だけではなく、私の周りの友人・知人も大なり小なりそういうことのようであるので、多くの日本人は高級ホテルを使いこなせないということなのかもしれない。やや穿った見方であるが、高級ホテルを存分に活用することが出来るようになるためには、マスターとサーヴァントといった身分関係にまず慣れることが必要であるのかもしれない。ということであれば、戦前は兎も角、日本的戦後民主教育にどっぷり浸かって成長した私には端から無理な話である。
 ビジネスホテルに戻る。ここで言いたかったのはホテルという西洋様式ひとつとっても、日本人はそれを換骨奪胎し、日本的に仕上げているということである。西洋式ホテルが欧米文化の粋であるとするならば、そうした文化に慣れていなければ、設備・施設がいくら快適であっても、心底それをエンジョイすることは出来ない。
 制度経済学では、同じ資本主義の範疇においても色々なヴァリェーションがなぜ生じるのかが研究されている。そしてそうしたヴァリェーションの生成は、その形成過程に依存することが解明されている(経路依存性)。すなわち英国において誕生した資本主義が各地に伝播する中で、各地がそれぞれ固有に有する歴史・文化・風俗・習慣などによって、その形態を変質させてしまうということである。資本主義に米国型、独国型、日本型あるいは中華型が生じ得るということである。
 これは経済に限らず、宗教の方がもっと分かりやすいかもしれない。世界宗教であるキリスト教イスラム教、仏教のどれをとっても、各地に伝播する中で、地の土俗宗教に影響を受け変質してしまうことが多い。わが国における神仏混淆などはその好例である。寺院の中に社が鎮座まします光景は、われわれにとって少しも不思議ではない。仏教の土俗化である。
 翻ってグロバルスタンダードがアメリカンスタンダードであってもなくても、そうしたスタンダードを世界中に撒き散らすことなどは所詮無理な話である。特に金融についてはその土地土地の歴史・文化・風俗・習慣を一身に背負っているわけである。これをグローバルスタンダードで縛って一元化するという発想自体が極めてナンセンスであるわけだ。奇しくもグローバルスタンダードの正体が、単なる錬金術師の野望であったことが判明した現在、急がなければならないのは、金融に限らずその地にフィットする制度の構築である。ビジネスホテルからグロバールスタンダードまで考えてしまった。少し考えすぎかも知れない。