英語の公用語化:いったい何を目指すのか?

 昨日(9月24日)付け日経産業新聞の『強い大学 第3部 活路は世界に』の記事中に、「外国人であっても、社内の公用語である日本語が話せることが採用の前提だ」(IHI人事部採用グループ水本伸子部長)との談話が紹介されていた。しかし一方で楽天ユニクロのように、英語を社内公用語化する動きもあるわけだ。
 私自身国際部門での仕事の経験もあり、英語(外国語)の重要性はよく理解しているつもりである。だが外国語を公用語化することには様々な問題があり、それをクリアしないままに突っ走ることは先行きその会社の屋台骨を揺るがす結果になること必至、と私は考えている。
 非常勤で出ている大学の私の授業はどういうわけか留学生が多い。この春学期も中国をはじめ韓国、ヴェトナム、カンボジア、そしてケニアと多彩であった。勿論授業は日本語である。彼らを前にして私は必ず聞くことがある。それは「ものを考える時に何語で考えるのか?」ということである。予め想像がおつきになると思うが、彼らのほとんど百人中百人が「母国語」と答える。
 今や日本の会社とか、どこの会社とか考えることは無意味であるのかもしれない。だが日本人が多数を占める日本国籍の会社において、日本的発想や思考法を大事にすることは国際化に反することではない。まったく無関係の別次元の話である。言うまでもなく、その国民の発想・思考はその国の母国語に大きく左右される。藤原正彦先生は小学生に英語を教える前に、「一に国語、二に国語。三、四がなくて、五に算数」と仰る。このことは母国語をしっかり身につけて発想・思考を固めなければ、外国語をいくら学んでも本当には身につくことがないということであろう。
 日本人が座興に日本人同士で英語で会議するのとは異なり、そこに英語を母国語とする人が一人でも入ると主導権は一挙に彼らに移ってしまう。これは知人のソニーの元会長氏に直に聞いた話であるが、CEOに外国人を戴くあのソニーでも会議のコミュニケーションは通訳を介するということである。むしろその方が誤解も少なく良好なコミュニケーションがとれるということのようだ。名映画字幕翻訳家の戸田奈津子さんなども、外国語を正確に理解するためには日本語のボキャブラリーを多くすることを主張される。彼女は未だにボキャブラリー・ハンティングの日々なのだそうだ。
 またこれも知人であるが今春国立大学を定年退職して、某私立大学の学長になった人がいる。彼は国立大学時代留学生相手に英語で授業をしており、その経験を現在の大学に持ち込もうとしたが、それが頓挫したのだという。頓挫した理由は、語学の修得と偏差値にはどうも関係がありそうだということに気がついたからとの由。私には外国語の修得と偏差値に関係があるかどうかはよく分からない。ただ藤原先生の指摘を待つまでもなくささやかなこれまでの経験から、私は、外国語修得と日本語の能力とには関係がありそうな気がしていならない。日本語あるいは母国語をしっかりマスターすることが、外国語修得の王道ということである。
 否応なく国際化せざるをえなかったわが国に企業においては、グローバリズムの呪縛に囚われているところが多い。だが万古不易のグローバル経営など果たして存在しえるものであろうか。考えてみよう。ほんの少し時代を遡ると、日本的経営が一世を風靡した時代もあった。その経営手法が成功方程式の鍵であるとするならば、日本的経営がグローバル経営のスタンダードとなって然るべきであった。しかしながらそうはならなかった。なぜか? 企業文化はその企業が拠って人種・歴史・風土等によって培われるものだからだ。経営は須らくローカリズムということなのである。
 私は頭から外国語を否定する者ではない。外国語を公用語化する前に、われわれはするべきことが沢山あるということだ。その国の言葉を無前提に受け入れることは好むと好まざるとに拘らず、それを母国語とする人たちに隷属するということであり、一方で、これまで培ってきた文化を破壊してしまうということである。よかれと思って進めてきたグローバリズムがことごとく破綻に瀕している現実に目を向けなければならない。