根が深い証拠改竄事件

 村木元厚労省局長の裁判をめぐって、主任検事が証拠品のフロッピーのデータを改竄したのだという。まったく開いた口が塞がらない話だが、このことについて少し書きたい。
 そもそも検事・警察官といった法執行官は正義の味方でなければならない。私が子供のころに接した交番のおまわりさんはまさしくその印象が強かった。だが最近の検察・警察の不始末はその印象を180度変えてしまうことばかりである。志布志・足利などの大冤罪事件をひくまでもなく、例えば、身近なところで言えば交通違反の取締り。多少の怨念を込めれば、明らかに違反を犯しそうな場所に隠れてのネズミ捕りは卑怯そのものである。
 勿論違反がいいと言っているのではない。ネズミ捕りが警察の本来的な目的を逸脱していることを言いたいのだ。警察官が犯罪や違反を犯した者を捕まえることは大事な役目である。しかしそれ以上に、犯罪や違反を未然に防止することこそがその本来的な役目ではないのか。ネズミ捕りでは違反を犯しそうな場所に隠れていて、違反を犯すのを見極めて捕まえる。これは交通違反だから世間がまだ許すのかもしれない。だが、例えば殺人事件であったらどうであろう。殺人を犯しそうな者に予め目をつけておき、殺人を犯したのを確認してからすわ逮捕。ネズミ捕りは許せても、これは決して許されないであろう。
 繰り返すが、法執行官は本来的に社会正義を保証する機関であって然るべきである。社会正義の追求は法を犯した者を捕まえることではない。法を犯してしまっては元も子もないのである。犯罪や違反を犯しそうな者をそうしないように予め領導する。そのことこそが法執行官の本来的役割であるはずだ。
 それがそうした役割を果たさないのはいくつか理由があると思う。今回の証拠改竄事件が典型的であるが、そこには出世・成果主義が大きな要素を占めすぎていることが想像される。検事や警察官が事件を未然に防いでも得点にはならない。捕まえたり起訴した容疑者を有罪に持ち込むことしか得点としてカウントされないとすれば、サラリーマン化した法執行官は事件を自作自演してまでも捏造することとなるのであろう。これはガバナンスの問題である。
 しかしながらそれ以上に問題が大きいのは多聞に、司法がヴァーチャル・リアリティの世界であることだ。裁判で大事なのは真実ではない。裁判所は論理展開が如何に優れるかを競う場である。ケーススタディが有効であるのは、ロースクールは、バーチャル・リアリティという虚構における一種の「口」合戦の技術を磨く場であるからだ。ここで重要視されるのはロジックでしかない。だから世情に疎くても裁判官や検事が務まるのである。
 なおこれに異論がある方は、O・J・シンプソン事件を思い出して頂きたい。殺人の判断をめぐって刑事事件では無罪。民事事件では有罪。このことを素直に解釈すれば、真実が2つあるということだ。だが真実が2つあるわけはない。刑事では、弁護人の論理展開が検事のそれより優れ、民事では、訴えた側の論理展開が弁護側のそれより優れていたということでしかない。
 私はそのことを是認する者ではない。だが実際の法執行において、真実を捻じ曲げてまでも事件を成立させようとする対応があまりにも目につきすぎる。いずれにしても今回の証拠改竄事件は根が深いということである。少なくとも個人の資質のみに関係する事件ではないであろう。そうした要因として本稿では、法執行機関における過剰な出世・成果主義と司法のヴァーチャル・リアリティ性の2つを取り上げた。本来的な社会正義が保証されるためには、これらに遡って真剣な議論が展開されなければならないということである。これを声を大にして唱えたい。