法人税率の引下げ問題に思う:経営者の経営放棄

 法人税率の引下げ問題がここへ来て、また俄かに騒がしくなって来た。法人税率引下げを求める根拠を、今日(5月17日付け)の読売新聞によって見てみよう。ここではわが国の法人税の実効税率は40.69%であり、この水準は欧州の30%前後、アジアの25%以下などに比べて高すぎ、これではわが国から企業が逃げ出してしまうとされている(米国は州にもよるが、ほぼわが国と同水準)。私は元来、税収を法人税に過度に依存する税制には反対である。しかしそうした立場であっても、今般の税率引下げ問題はもっと慎重に議論する必要性が認められる。
 税(個人税も含む)については、そもそも国が提供するインフラの対価という立場に立って考えなければならない。治安、法制度、政策の透明性、政府の公正性などがそうしたインフラである。さらに範囲を広げると、労働力の質、民情などもその対象となるであろう。このことからは中国の税率がわが国より低いとしても、税率差だけで喜んで投資対象とするかどうかという問題が提起される。要は法人税は、そうした諸々の便益の対価(コスト)ということである。昨今の法人税率の議論にはその視点が甚だしく欠けている。
 なおわが国企業のコスト問題において、一番大きいのは賃金コストであろう。賃金コストが高いから企業は挙って東南アジアや中国に生産拠点を移した。根本的なコスト問題がそこにあるとすれば、法人税率の引下げで競争力が回復するとは到底思われない。研究機関は税率引下げの効果を概ねプラスと見るが、こんなものは実際に蓋を開けて見なければ分からない。御用研究所の撒き散らす害毒には本当に閉口である。
 翻って私は、法人税率引下げ声高に叫ぶ経営者は「経営者失格」であると考える。企業経営のそもそもが分かっていないからだ。ピーター・ドラッカーは、名著『断絶の時代』の中で、「いわゆる利潤動機なる概念は雲散する」と指摘する。なぜならば「利益とは不確実性のコスト」であり、決して「余剰ではない」からだということである。そしてドラッカーは、「これまで利益とされてきたものは、実は明日のためのコストにすぎない」ものと結論づけるのである。
 今日的話題に見ると、エコポイント。これは政策的インフラの一つである。自動車・電機・住宅といった限られた業界ではあるが、未曾有の経済危機に際して政府はこうした政策的措置をとった。トヨタが黒字転換し、ヤマダ電機が好業績を上げえたのも、それらの政策の効果が大きい。これは明らかに収めた税金の対価として、国がリスク緩和に努めた結果といえよう。
 「税金を払うのは嫌だ。しかしリスク回避は政府にお願いしたい」。こんな噴飯ものの理屈が通るはずはない。小学生にだって分か道理である。理屈にもならない理屈を口にして天にも地にも恥じないのは、経営者のことごとくが無知である以上に、そもそも経営者としての覚悟と矜持がないからだ。へっぽこ経営者ばかりということである。
 税金を巡って、個人と法人の対峙ということを考えてみよう。法人税を下げる一方で、消費税を上げる税制は明らかに個人にマイナス、企業にプラスである。この限りでは不公平感が強い。だが私は個人所得の源泉が企業にあり、しかも安定した税収が期待できるという点において、こうした税制改革の方向性に必ずしも反対ではない。
 ただその前に、企業というものの本質を是非とも議論する必要がある。カナダの経営学者ヘンリー・ミンツバーグは『H.ミンツバーグ経営論』の中で、「仮に企業が真の自由を手にすれば、人々は自由でなくなるはずだ」と指摘する。経営学者でありながら、ミンツバーグは企業は何がなんでも儲けさえすればいいという立場はとらない。
 ミンツバーグにとっての「組織(企業)とは、ある共通の使命を追求する集合的な行為意味」するものであるとする。そして「経済学において、組織は“合理的”で、何とか利潤を最大化する実体」とみられているが、「そのような組織を私はみたこと」がないともいう。
 こうしたミンツバーグの考え方は、ドラッカーに通じるものである。ドラッカーは企業の目的として「利潤動機」は存在しないといい、ミンツバーグも企業を「利潤を最大化する実体」ではないとする。またドラッカーはより直截的に、企業は「生産性向上のための機関」であるとし、ミンツバーグは民主主義下における種々の組織(企業)活動は、それを通じて究極的に「人々を自由にする」ことだとする。
 彼らに共通するのは、企業活動の最終目的は「利益」ではないということだ。世界中の経営者がドラッカーやミンツバーグに学んでいれば、利益にばかり振り回されることなく、エンロンやリーマンの悲劇を未然に防ぐことができたであろう。返す返すも残念である。いずれにしても近視眼的な法人税率高低の議論は、経営者の経営放棄である。少なくとも真の経営者たる者が決して口にすることではない。そのことを確認しなければ先には進めない。