ドラマ「わが家の歴史」からついつい民主党政権

 先々週9日(金)〜11(日)日の3日間・合計8時間に亘ってドラマ『わが家の歴史』がフジテレビから放送された。これは異才三谷幸喜さんの脚本によるもので、フジの開局50周年記念企画ということでもある。
 見終わったあとの全般的な印象としては、詰め物が多すぎて消化不良という感じが強かった。もっともそもそもの企画がパッチワークのつぎはぎをよしとし、パロディーに重きを置いているのだとすれば、私風情が四の五の言う話ではないかもしれない。ただ『有頂天ホテル』のようなこれまでの作品のようには壷に嵌っていなかった。まあこれは私の勘違いであるかもしれないが…。
 ここで書きたいのはこの作品の評価ではない。このドラマで心に止まった玉山鉄二演じるところの大浦竜伍という人物について触れたいのだ。大浦はヒロイン・八女政子(柴咲コウ)の元許婚であったが、泣く泣く戦争に借り出された挙句に戦死の公報が届く。それを真に受け政子は、新興成金の二号さんに納まる。しかし公報は誤報。大浦はどっこい生きていて、シベリアの抑留から戦後暫くして帰還する。そこで…。こう書くと「臭さも臭し」というところだが、設定のリアリティに三谷さんは興味がないのであろう。これは飽くまでも三谷パロディーの一つのパーツと捕らえた方がよい。
 大浦は抑留中にすっかり左翼思想に洗脳され、帰還後は血のメーデー事件、砂川基地紛争などに党員として関わって行く。当然新興成金である政子の夫・鬼塚大造(佐藤浩市)に対して徹頭徹尾攻撃的で、実際に直談判にもやって来る。だが一方で彼の目には戦後の奇跡の復興も見えているわけである。そうこうするうちに彼は「何に怒っているのか」、自分でもよく分からなくなってしまう。
 左翼思想を捨てきれないなかである日大浦は軍隊時代の上官に出会い、誘われるままに、旧軍人らが画策するクーデター・三無(さんゆう)事件に巻き込まれてしまう。ここで彼は、それまでの左翼思想信奉から右翼思想信奉に振り子を大きく振れさせてしまうのである。つまりは彼にとっての思想は、左でも右でもどちらでもよかったということなのであろうか? そうだとすれば大浦にとっての革命は、社会正義の実現を大義名分とした欲求不満の捌け口にすぎないものであったということだ。
 三谷さんの真情は知らない。だがパロディーが如何にそれ以上でもそれ以下でもないとしても、風刺の根源はあるはずだ。三谷さんには左も右も同じことなのであろう。円周を左右に分かれて辿ればどこかで必ず出会ってしまう。
 以降は私の考えである。社会正義を実現するためのイデオローギーとしては、詰まるところは左も右も同根である。単純にこう書いてしまえば、左翼陣営・右翼陣営それぞれからきついお叱りを受けることであろう。社会科学的な意味での絶対的真理の法則などは決して存在しないところから、どちらの体制が追求されても、いずれは機能不全ぶりが露呈しまたぞろジレンマに陥ってしまう。
 イデオロギーは、要は何を信じるのかということである。鰯の頭でも信ずればご利益がある。昔ソ連邦を訪問して「社会主義の牛乳は美味かった」と仰った大先生がいた。社会主義でも資本主義でも、牛乳は牛乳であろう。ところが自分の与するイデオロギー下における方が牛乳も美味い。信じている人にとっては自分が信奉するイデオロギーに傾くことは、それが明らかに機能不全を暗示していても方向性として望ましく感じられる。だが社会正義の実現は何時まで経っても山の彼方なのである。
 私の学生時代はもろ70年安保闘争の真っ只中であった。全共闘旋風が吹き荒れていたのだ。私の同級生の何人かもそこで活躍しており、高校時代からの友人(女性)の一人は闘争を貫徹するために、医学部から文学部への転部も辞さなかった。だが彼らの中に信じていた思想を全うした者は極端に少ない。知っている限り会社経営、弁護士、大手証券役員など、すっかり体制に埋没している。
 彼らが怪しからんということではない。世の中こんなものであるのだ。多分どんなに人類の叡智を尽くしても、社会科学における最善解を発見することは出来ない。未来永劫に、それぞれの拠って立つ立場、人生経験、信条・信念、理想などによって、いくつもの処方箋が書かれることであろう。要はこれらは全て部分解であり、かつこの解は全体の最適解を保証するものではない。
 私が言いたいのは、社会科学を操る人々は、学者先生も、政治家先生も、官僚の皆さんも、処方箋の限界を最大限配慮しなければならないということである。小泉改革がなぜ今批判の集中砲火を浴びるのかと言えば、そうした一方向を向いた処方箋に極端に偏りすぎたためである。
 政治というのは、極端に傾く世論の中和を図ることが本来的に最大の役割である。「真実は中間にあり」こそが絶対的真実であるからだ。自民党政権が50年以上も持ち堪えたのはその中和機能が上手く機能して来たからである。極めて極端かつエキセントリックな小泉政権の登場は、それを支持した先生方のどこまでがそれを認識していらしたかは分からないが、「自民党自壊」への啓示であった。
 翻って民主党政権。彼らが呉越同舟、もっと悪く言えば烏合の衆であることは間違いない。ただ私の理屈ではそうした烏合の衆にこそ、この国の救いがあるということなのだ。百家争鳴のなかの秩序。それこそがもっとも求められることなのである。自民党の全盛期には、それを妥協のプロセスと呼んでも言いのだが、極論飛び交うなかでの秩序づくりの智恵を持っていた。
 繰り返すが自民党はそうした智恵を失ってしまったから、国民が見放し、そして自壊してしまった。渡辺さんの「みんなの党」も、与謝野さんや平沼さんの「老人党?」も、格別自民党と決定的な政策的差別性を持たないにも拘わらず、党を割ったのは従来機能して来たメカニズムが機能しなくなってことによって、居場所がなくなったから、ああした形を取らざるを得なくなったのであろう。
 民主党を支持した一人として思うことは、徒に「一人独裁」の影に怯えるのではなく、政調でもなんでもいい。政策に関して闊達な議論をして欲しいのである。その場合、議論過程の透明性が是非とも保証されなければならない。パフォーマンスとしての「事業仕分け」などもう結構である。この国の再起動を図るために、民主党の先生お一人お一人が何を考えているかということを広く世の中に知らしめる。
 その結果どう妥協がされたのかというプロセスが明らかにされれば、国民は納得するであろう。知りたいのは政策決定に関して、誰がどういう狙いで発案し、それを巡ってどういう議論が戦わされ、どの先生が賛成し、どの先生が反対に回ったのかということ、等々である。
 国民は民主党マニフェストに全面的に賛成して勝たせたわけではない。また現状における政策的な限界性は充分に承知もしている。だからマニフェストに関する違約などには少しも痛痒を感じない。そのことを鳩山総理以下皆さん誤解している。先生がたのお一人おひとりが、本当に命がけでこの国のために汗を掻いてくれている様子が見えればいいのである。そこからしか、この国の再生は始まらない。