河村市長を応援せねば

 昨24日名古屋市議会は、河村市長が提出した「議員定数及び議員報酬半減」に関する条例案を1対73の圧倒的多数で否決したということである。これに対して河村市長は「稼業化し、既得権益にしがみつく議員先生たちの性がはしなくも露呈した」との趣旨の発言をされているが、まったく同感である。
 私も本欄で『国会議員の本音:ボーナス削減に「賛成の反対」』(2009年6月1日)、『国会議員は自ら議員歳費を半額とせよ』(2009年9月15日)と、河村市長と同趣旨の提言を行うとともに、議員先生がたの性向を指摘した。
 最近つくづく思うのは、わが国の政治の体たらくは「政治が稼業化あるいは家業化してしまったことが第一」ということである。稼業化してしまっているからこそ、選挙至上主義となり、バッジに必要以上に執着する。異常な利益誘導の問題や議員年金の問題だって根源はそこにある。政治が稼業であるからそうした問題が生じるのだ。
 昔私の故郷では、市会議員の先生は議員の仕事以外に、医者とか、会社経営者とか、労組の幹部とかのある意味町の名士で、別の稼業を持っていた人が多かったように思う。こういう構成がいいか悪いかは別の問題であるが、地方議会においては経済的報酬を求めて議員になる人は極端に少なかったことは確かであろう。要は河村市長が言われるようなボランティアが太宗を占めていたということだ。
 私は国会議員も地方議会の議員もボランティアがいいと考えている。政治のプロは要らないということだ。議員が稼業化してしまうことの最大の問題は、生活感覚の欠如した議員先生に国民・市民の立場に立った政治が期待できなくなることだ。金帰月来で選挙区に帰って支持者に接触しても、冠婚葬祭ばかりでは民の声は伝わらない。
 政治にカネがかかるということは要するに選挙対策にカネがかかるということだ。決して政策立案にカネがかかることではない。そうした不特定多数の個人の選挙対策費用に、議員歳費や政党助成金血税が注ぎ込まれるのはまっこと堪ったものではない。
 そう達観すれば名古屋市議会の先生がたが、市長は公約違反だ(公約では議員定数は10%の削減であったのが、半減までエスカレートした)、定数が半減されれば民意が届かなくなる等々と、いくらまくしたててもそんな理屈は心に沁みない。他市のことではあるがこんな有様ではリコールもやむなしということであろう。また本当に理屈に自信があるのなら、先生がたは率先して議会を解散して自ら民意を問うべきだ。
 河村市長に全面的に与するわけでもないのだが、議員はボランティア、報酬削減、再選制限などは正しい方向性のように思われてならない。まず国政であれば、衆議院3期12年以上、参議院2期12年以上、地政であれば、一律3期12年以上の再選禁止を徹底する。そして議員歳費を半減する。こうした条件でも政治に挑む人材は必ずいるはずだ。
 ボランティアは志願者と訳されることが多いが、要は「進んでことに当たる人」のことである。単なる志願者ではないのである。先般とあるNPO法人の人と話していて、「NPOへの参加は基本手弁当なので、それだけに参加する人たちの本気度が分かる」と言っていた。政治もそうだと思う。原則ボランティアとすれば、政治とカネ、政治と女、政治と利益誘導などの懸案事項は一挙に解決する。
 繰り返すがボランティアということは、政治を稼業としプロを作らないということだ。大学を出て社会経験も経ずに政治家を志す心根自体絶対におかしい。それが縁者の地盤・看板・かばんを受け継いだ者であっても、松下政経塾のようなところで学んだ者であってもそれは同根である。真っ当な社会経験や浮世の苦労もしたことのない人たちに、民の竈など慮ることが出来なくて当たり前である。
 民主党が醜態を曝け出しているのは、小沢さんに限らずプロと言われる人たちが政治を仕切ろうとしているからである。この国ではそもそも政治家を志す人たちのレベルが低すぎる。そうしたレベルの低い人たちが「先生・先生」と崇め奉られてその気になって、力もないのに国や自治体を治めようとするからおかしなことが起きてしまう。力のなさの根源は、真っ当な社会生活を経験していないことが第一である。
 昔「書を捨て、街に出よう」と言った人がいた。若い人が志を高く持って政治を志すことはいい。だが議会に入る前に街に出ることは必須条件である。それには若い人たちばかりでなく、不充分な実社会経験しか持たない先生がたも含まれよう。もっともそういう人たちしか選挙に出ないので選びようがないということはある。しかしそうであっても最終的に有権者にはやはり責任がある。そのことも同時に肝に銘じたい。ごちゃごちゃ書いたが、取り敢えず只今現在は河村市長を見殺しにしてはならない。