ハワイの名ガイド川手さん

 先々週ハワイに行った時、2日目にオアフ島1周とポリネシア文化センター・ツアーというコースに参加した。同ツアーへの参加者は20名ぐらいで、われわれの年代を最高齢に若い人は20歳前後の大学生という塩梅であった。
 このツアーのガイドは川手さん。父親が広島・母親が沖縄出身という、推定年齢70代半ばの日系二世の方であった。日本に住んだことはないということであるが、日本語は親父ギャグの達人でほぼ完璧。かつ現役時代は中学校の校長先生ということで、ガイド内容に含蓄が深く、また若い人たちへの教育的指導?(各ポイントの集合時間に遅れると怒る)も十二分であった。めっけもののツアーであったと思う。
 川手さんは真珠湾攻撃時に小学生で、日本の戦闘機がハワイの空を埋め、軍事基地を攻撃するさまを目の当たりにしたということである。日本軍のファースト・アタックの場所がハワイであったにも拘らず、そのプレゼンスの大きさあるいはそれまでの貢献の大きさ等々から、ハワイの日系移民は強制収容所に収容されなかったという話は初めて知った。
 オアフ島には戦時中に作られたピンク色が可愛い軍関係の病院があるのだが、その建設には日本人捕虜が大いに貢献したということである。そんな話も知らなかった。この病院を巡ってのエピソード。川手さんがガイドを務めたツアーでのこと。80代とおぼしき参加者の男性が「あの病院は俺たちが作ったんだ」と言うのである。よくよく聞いてみると、その男性は捕虜として病院建設に当たったということであった。川手さんの言。その場に遭遇して「つくづく歴史の因果と重みを感じた」ということである。
 このツアーでは、日立のCMに使われる大木、ドール果樹園、サーフィンのメッカ・ノースショアなどの定番コースを巡るツアーが基本である。そうしたなかでも川手さんの教育的配慮からか、病院建設のエピソードやハワイ農園村(Hawaii’s Plantation Village)など、ハワイと日本に関わる歴史の説明にはより強い情熱が感じられた。観光ツアーのガイドの立場からあからさまに歴史を語ったわけではないが、日系人として日本人に知っておいて欲しいことを伝えたい。その意図がひしひしと伝わって来た。
 ハワイ農園村はワイパフという場所にあり、ハワイのプランテーションにおける労働者の歴史、生活、経験を屋外施設として展示するものである。これは日系移民のみに関する展示ではないが、今回は日系移民に関するものを中心に案内された。日本以外では、中国・ポルトガル・朝鮮・フィリピン等からの移民の様子が紹介されている。なおこのなかで沖縄が日本と区別されて展示されていることは特筆される。
 当初農園と移民との契約は賃金と福利厚生に関するものだけであり、移民の生命を左右する住宅や医療についてはほとんど対象外ということであった。農園村に展示される住まいは最終段階のものであり、現在の日本人の住居と比べても遜色ないものである。ただし初期の移民の住まいは草葺の掘っ立て小屋かぼろぼろの仮屋が基本で、歴史を経るうちに住宅事情は大改善されたということである。
 さらに日本や朝鮮からの移民は当初単身者がほとんどで、滞在が長期化すればするほど嫁取りが問題となった。そこで工夫されたのが写真見合いである。これには詐欺まがいの行為も多々見られたということで、実話として45歳の男が25歳当時の写真を送りつけ、その写真を見てやって来た19歳の花嫁がびっくり仰天して泣き暮らしたという悲劇もあったのだそうである。
 ただ考えて見れば、明治から大正にかけての疲弊した農村からの移民である。移民も口減らしの一貫であった場合が多かったことであろう。そのまま家にいて嫁に行ったとしても、思うところに行けることはまれである。最悪のケースでは身売りに出されることも珍しくない。そんな環境であったとすれば、残るも地獄、渡る(移民)も地獄。現代にのうのうと生きる日本人としては複雑な気持ちである。
 レジャーに行ったハワイであるが、川手さんという名ガイドのお陰で、ハワイと日本の歴史に思いを馳せることが出来た。日米関係はこうした先駆的な移民の皆さんによって草の根で支えられている。それを知っただけでも有意義なハワイ行であった。川出さんがあますます健勝であられることを祈りたい。