セキュリティチェックにソフトパワーを

 今週は大分に行って来た。大分へは仕事である。ただ本日書きたいのは大分のことではなく、羽田でのセキュリティチェックについてである。チェックが厳しくなったのは聞いていた。しかしここまでとは思わなかった(もっとも私だけがたまたまそうした目に遭ったということであるのかもしれないのだが…)。
 ゲートをくぐってアラームが鳴ってまた再チェックを受けるのが煩わしいので、以前から反応しそうな金属製品は予め全て取り外すことを励行して来た。今回もこれまでの経験則に照らしてしてチェックされそうなものはトレイに載せてX線検査に回した。しかし例のピンポンが鳴ってしまったのである。
 鳴るとすかさず係員のお嬢さんが待ち受けていて、「ボディチェックをしていいですか」と許可を求めて来た。全然心当たりがないので不思議な感じがしたが、「断ったってチェックするんでしょう」などと軽口を叩きながらチェックに応じた。だがこれが間違いのもとであった。そのチェックは明らかに度を過ごした執拗さで、最後は苛立ちを通り越して怒りすら覚えた。
 ボディチェックのための探知機の感度を上げているのであろう。兎に角どんな小さな金属にも過剰に反応してしまうのである。反応するとすかさずそこのボディタッチが始まり、何にも見つからないにも拘わらず、また探知機を当てそれが反応する限りタッチでヘチェックをする。その繰り返しである。そしてそうした多大な時間を掛けた挙句に、結局正体を確認することなく終わってしまった。怒り心頭に達していた私は、「ここまで時間をかけてチェックしたのだから、何が反応したのか説明せよ」と求めたのだが、当然的確な説明は得られなかった。
 これって何なのだろうか? テロを未然に防ぐために、セキュリティチェックが重要なことは勿論理解している。だが何も心当たりのものを身につけていないにも拘らず、過剰なシステムを採用し、それに従って極めて不愉快なチェックを強制する。やはり何かがおかしいのではないのか?
 翻って対照的であったのは先週のホノルルである。金属製品は予め身体から離してチェックを受けるのは同様であるが、同時に靴や上着も脱がされ強制的にX線検査に回される。靴や上着まで脱がされることには若干の抵抗があったものの、冷静に考えてみればこの方がはるかに合理的である。予め金属反応しそうなものの大部分が身体から離され、そのうえでゲートをくぐるわけであるから、ここで引っかかる確率は最小限にまで小さくなる。その結果無用な不愉快さが未然に最大限軽減されるということだ。
 羽田の係員の皆さんに悪気がないのは理解している。決められたマニュアルどおりにやっているだけで、ただただテロの未然防止に熱心なだけである。問題は人にあるのではなくシステムである。羽田もホノルル(アメリカ)に学べばいいのではないのか? 妙なところでグローバルスタンダードに拘るわりには、肝心なところを真似ないのは合点がいかない。
 日本のモノづくりは如何に韓国や中国が追い上げても、未だ世界一だと私は信じている。ただしそれは飽くまでも“モノ”づくりという“ハード”のレベルでの話である。サムソンではハード自体の性能性は兎も角として、事前の市場調査が綿密で市場ニーズに合った製品を送り出す。ハードよりはソフトを重視する姿勢である。
 日本メーカーはハードの性能を極限まで追求する一方で、ソフト面への考慮が相対的に少ない。韓国などはハードの性能を追求するよりは、ソフト面の満足性を相対的に重視する。ソニープレステ3立花隆さんに言わせると、ハード性能はスパコン並みということである。しかしそれが技術的には遥かにプアなNINTENDOのWiiやDSの後塵を拝してしまう。技術者の自己満足で技術の粋を極めて見ても、消費者がそれを理解しなければ売れるはずがない。大事なのは消費者の感性のくすぐりであろう。要はハードパワーではなくソフトパワーということである。
 日本のメーカーでは一般に圧倒的に技術者優位の体制が組まれている場合が多い。その証拠としては、メーカーの社長には技術系出身という不文律を持つ会社が多いことをあげればよいであろう。そうした体制からは技術水準を高めさえすれば、売れる商品が作れるし世の中の問題も解決されるという、過剰な技術信奉主義が生まれる。その結果自己満足の強い商品が市場に送り出され、それが売れればいいのだが、あまり市場では受け入れられない。その繰り返しである。
 空港のセキュリティチェックの問題もそういうことなのであろう。ハードの能力を高めれば安全が保証されるという、過剰な技術信奉主義の発想がここに垣間見られると言えばいいすぎであろうか? セキュリティチェックが至上命題だとしても、チェックを受ける“お客様”が不愉快な思いをすれば元の木阿弥である。新型インフル騒動もそうである。疫学的知見を無視して防護服でただただ走り回るだけのパフォーマンス。これも同根であろう。
 繰り返すが、ハードに頼りすぎるからこうした不愉快さが生じる。少なくとも明らかに何もないにも拘わらず、機械が鳴り続ける限り検査を繰り返すという愚行はマニュアルがハード信奉に偏りすぎるからである。ホノルル(あるいはアメリカ)におけるように、上着を脱いだり靴を脱いだりという不快感はあるものの、それを実行することによってトータルの不快感は最小化される。ソフトパワーと言えば大袈裟であるが、要は頭を使えということである。
 因みに、こうした厳しいセキュリティチェックのお陰で、大分便のゲートは最遠の場所にあったため、余裕を持って出掛けたにも拘わらず、セキュリティから汗を拭き拭き走って漸く出発時間に間に合うという有様であった。これだけでほとほと疲れ果ててしまった。空港は利用者から利用料金を徴収することによって経営体として成り立つ組織である。乗降客は“お客様”である。そのことを国交省や空港管理会社はすっかり忘れているのではないのか?