右大臣実朝と鳩山さん、そして章男さん

 昨年は太宰治の生誕100年記念ということで、彼を知らない若い世代にも太宰ブームが起きたようである。それに釣られたわけでもないのだが、どういうわけか太宰治『右大臣実朝』を読んでいる。太宰の小説はもともとあまり読まないのだが、とりわけこの作品はまったく初めてである。太宰は実朝にもともと心酔していたということで、戦中の無聊を慰めるためにこの小説を書いたということのようである。それにしてもなぜ実朝なのか?
 太宰という人は田舎のお大尽としてのプライドと、田舎出身者のコンプレックスの狭間で一生を悩みぬいた人である。「人生がなんちゃらこうたら」とやたら哲学的である一方で、生活の術は親まかせの彼方まかせ。女性にももてもて。贅沢な人である。本音は一言。羨ましい人である。それなのに死にたくて仕方がなかった。不思議なことである。
 実朝は鎌倉幕府の三代将軍。武門の長でありながら、都の貴族文化に憧れて鎌倉に京風文化を持ち込み、後世に残る名歌集金槐和歌集までものしてしまったほどの大文人である。だが文武両道とはいかなかった。実朝は権勢を誇る鎌倉幕府の統領であり、人も羨む立場にあった。そのプライドの一方で、京と武技へ言い知れぬコンプレックスを持っていた。
 太宰は、そうしたプライドとコンプレックスの複雑な複合体にわが身を映したのではないのだろうか? 太宰が実朝に惹かれた鍵はそこにあるような気がするのである。
 プライドとコンプレックス。これは大なり小なり、人と生まれれば必ず持つものであろう。翻って私は、安部さん以降三代続いた自民党政権をコンプレックス政権であったと理解している。偉大な祖父・父親と学歴へのコンプレックス。それに尽きるのではないかと思うのだ。
 では鳩山さんは如何であろうか? 鳩山政権誕生時、アメリカのマスコミは彼を日本のケネディと紹介した。エスタブリッシュメント中のエリートという意味ではそうかもしれない。だが鳩山さんは財力を除けばケネディ以上にエリートである。とすれば、鳩山さんにコンプレックスはないのであろうか? 出自・財力・学歴、どれをとってもピカピカである。
 もしかしたら鳩山さんは政治家として、恵まれすぎた育ち自身をコンプレックスに思っているのかもしれない。エリートは野人に弱い。それと見逃せないのは母親へのコンプレックス。すなわちマザコンである。自民党政権末期の三人は多分に曽祖父・父親へのコンプレックスが強い半面、母親へのコンプレックスはさほどでもないであろう。しかし鳩山さんは男親に加えて女親へのコンプレックス。この方が実は問題が大きいのかもしれない。
 息子にとって男親は場合によって乗り越える存在であるし、ある種のライバルであることが多い。その一方で、女親は内なる守り神である。少なくとも敵対する存在とはなりえない。そこがマザコンの難しいところであるわけだ。克服しようと思ってもわが身の一部である。切除すればわが身が危ない。鳩山政権の危うさはそれに尽きるといえるのではないだろうか?
 それもこれも問題は世襲である。世襲というのは、親(ご先祖さま)に頭の上がらない人たちが権力を握ってしまうということである。一般人も親には頭が上がらない部分が多い。だが世襲と関係なければ、少なくとも仕事の場面で親にコンプレックスを感じることはない。田中角栄さんが母親を愛して止まなかったとしても、仕事の面で母親にコンプレックスを感じることはなかったであろう。
 政治家ではないが豊田家の御曹司も同じことであろう。ご先祖さまが偉大であればあるほど、コンプレックスは強くなる。章男さんについては折にふれ、このブログで取り上げてきた。しつこくそうしてきたのは、天下の公器たる国際企業に一族だからといって、何の衒いもなく社長になることの弊害を説きたかったからだ。
 章男さんへは、社長就任前から懸念を表明してきた。その懸念は一連のリコール対応に見られるように現実となってしまった。アメリカ議会での公聴会は先ほど終わったようであるが、しかしこの公聴会は見るに耐えなかった。章男さんは可哀想すぎる。いずれにしても彼は、やはり大トヨタの将の器ではないことだけははっきりした。
 実朝は自らをよく知悉していたからこそ、政治は北条にまかせて文弱の道に走ったのであろう。実権を握った北条も世襲を繰り返すわけであるから、何ともいえない部分はあるが、力のある、まかせるに足る番頭さんに実権を与えるのは偉大な生活の知恵である。トヨタ失敗の本因はそれを貫徹しなかったことだと思うのは私だけであろうか?
 本音のところ、大トヨタがこけてしまうことはわが国にとって困ったことである。しかしそれ以上に政治がこけてしまうことはもっと怖い。それもこれも世襲が問題だとすれば、政治改革は世襲から始めなければならないということである。そういえば小沢さんだって立派な世襲である。