菅家さんと小沢さんに見る司法の真実

 私たちは法執行機関としての検察や警察の正義を信じて来たし、今でも心のどこかではそれを信じている。だから裁判の結果を見るまでもなく、警察が逮捕し、検察が起訴した時点でもうすっかり被疑者を犯人扱いしてしまう。
 小林多喜二の母セキは、村の駐在さんが、極貧の身の上に同情して何かと目を掛けてくれた子供の頃の記憶をもとに、多喜二虐殺の報に触れても、なお正義の味方である警察がなぜそんな恐ろしいことをと混乱する。その後時代は下っても、駐在さんは優しく信頼感は抜群であった。これは私のみならず、時代を共有した者に共通の感慨ではないだろうか。
 そうしたなか先週2月12日に、足利事件に関して異例の無罪論告が示された。無罪が明らかとなった菅谷さんは犯人として17年以上もの長い間、殺人犯の汚名を着ながら服役した。冤罪と一言でかたずけるにはあまりにも痛ましい事件である。
 翻って小沢さん。先4日、ついに小沢さんは不起訴ということで、小沢vs.検察の抗争は一応の終息を見た。しかし政権与党の大幹事長に対して2度に亘る事情徴収を行い、小沢さんの新旧秘書3名を逮捕・起訴した事実は事実として残る。
 私たちは司法というのは真実を追及する行為だと信じて来たし、信じている。しかし本当にそうであるのだろうか? 戦前に遡るまでもなく、戦後も数々の冤罪が取りざたされた。政治がらみで言えば、鹿児島選挙違反事件(志布志事件)、福島県知事汚職事件などがすぐに思い浮かぶ。鹿児島の事件では2007年2月、鹿児島地裁で被告12名全員が無罪判決を獲得した。福島の事件では2009年10月、東京高裁は一審の東京地裁の判決を破棄し、首謀者とされる佐藤栄佐久元知事へは懲役2年執行猶予4年の判決が言い渡された。ここでは検察の起訴理由が悉く覆され、この判決は限りなく無罪に近い判決結果だとされる。
 こうした冤罪事件はなぜ繰り返されるのであろうか? ここには私は一般に言われるように、単なる警察・検察の点取り主義では済まされない、もっと根深い問題が含まれているような気がしてならないのである。やや哲学的に言えば、事件に真実があるのだろうかということである。 
 ミンツバーグ『MBAが会社を滅ぼす』では、「弁護士は(とくに法廷では)生の出来事に対処しない」とし、「弁護士が扱うのはあくまで事件の説明」だとする。裁判というのは決して厳密に事実関係を争うものではなく、論理と論理の鬩ぎ合いであるということなのだ。要するに法廷という劇場において、陪審員あるいは裁判員などの大向こうを唸らせた方が勝ちということである。
 アメリカの裁判では不思議なことが多々生じる。有名なO・J・シンプソンの裁判では刑事裁判で無罪、民事事件で有罪の判決が下されている。真実が一つであるとすれば、刑事も民事もどちらも有罪なら有罪、無罪なら無罪という結果が出なければならないはずである。これでは論理的には真実が二つあるということになってしまう。にも拘らず、こうしたチグハグな結果が出るのは、裁判は決して真実を追及するものではないと考えた方が素直である。
 元検事の弁護士堀田力さんは、2月13日付け日経朝刊のインタビュー記事で、「被疑者の話をただ聞いているだけでは真実を引き出せない。否認する被疑者の情に訴え、家族に思いを至らせ、隠すことの不利を説明し、いろいろな意味で心理的圧迫を加えて説得する」と語っている。
 これを皆さんはどう読まれるだろう? 私には堀田さんの言っていることは、「検察が描いたストーリーどおりの証言をしなければ許さない」というように見えてならないのである。彼が言っている真実というのは、その無謬性を大前提として「検察は真実をコントロールしている」。絶対的に「われわれは正しい」のであるから、「早く吐いてしまって楽になれ」ということではないのか?
 やや大胆に言ってしまえば、司法上の真実はストーリーでしかないということだ。換言すれば、真実は論理だということである。そうでなければ、シンプソン事件のように、刑事で無罪、民事で有罪などという判決が出るはずがない。われわれ衆生は裁判に仏の慈悲を期待し、正義が示されることを祈願する。だが実際の裁判に正義を期待出来ないということであるわけだ。
 そう言えば、松岡正剛さんは「世の中は全て編集によって形成される」と言う。彼によれば、「自然の摂理などもそもそも前提として編集の意図があって成り立つ」ものなのだそうである。松岡さんの考え方はとても難しくて100%理解出来ているわけではない。ただ私の悪い頭で考えるならば、その前提に編集の意図があるということは、自然の法則などは神の見えざる手による予定調和の世界以外の何ものでもないということのようである。
 そう意味で少々飛躍がすぎるかもしれないが、菅谷さんのケースや小沢さんのケースは同根と見ていいのでないかということなのである。