大手百貨店の相次ぐ店舗閉鎖:その無謀が規制を招く

 今朝(27日)の日経一面に、セブン&アイ・ホールディングが傘下のそごう・西武4店舗を閉鎖することが報じられている。この記事によれば、まず年内に西武有楽町店を閉鎖し、順次そごう呉店、同西神店(神戸)、西武沼津店についても閉鎖する方針であるということだ。
 長らく銀座近くで働いて来た私にとって、有楽町西武の閉鎖は特に感慨深い。同店は1984年の開業であるが、有楽町(=銀座)進出を果たした当時を私はよく覚えている。文化人たる堤清二さんを総合プロデュサーに戴き、“脱大衆文化”を掲げる中で提示される商品群には何時も酔わされた。当時の旗艦池袋西武もそうであったが、一歩足を踏み込めばそこは別世界。現実の自らの”身分”を忘れて、こんな商品・空間に囲まれて生活したい。心底そう思わされた。そこに居るだけで兎にも角にも気持ちが豊かになるのである。まだ若かった私は西武によって、まさに百貨店が文化の発信基地であることを実感的に学んだのである。
 そうした意味では山中蹻さんも凄かった。彼の手腕によって銀座松屋は目を見張るほどの変化を遂げ、それまで素通りされていた同店に人が集まるようになった。これも堤さん同様、百貨店を文化の発信基地と位置づけ、時代に合った文化をそこから発信することに腐心したからに他ならない。当時の私の昼休の憩いは、西武や松屋巡りであった。何を買うでもなくそこに行くだけで、明日の豊かな生活(くらし)を夢見ることが出来たのである。
 そういうことで、私は百貨店の意義は充分に認める。特に地方都市に行けば行くほど、文化発信基地としての百貨店の役割はなお一層大きい。百貨店の存在がなければ、中央と地方の文化的紐帯は分断されてしまうと言ってもいいすぎではない。百貨店の存在はさほど重要なのである。だが只今現在、百貨店は冬の時代それも“厳”冬の時代である。
 なぜか? それは明らかに経営に失敗したからである。そうした経営の失敗の第一は高度成長期に悪乗りしすぎた、それ行けどんどんの多店舗展開であろう。そごうを先頭に東京・大阪に本拠地をおく大手百貨店は猫も杓子も地方制覇を画策し、地場百貨店や地元小売店を殲滅し尽くした。しかし勝利の美酒に酔い痴れるのは一時。そこにはまたライバルが進出し、ただでさえ飽和状態の商圏を引っ掻き回し、ついには共倒れとなってしまう。そうした愚行を際限なく繰り返す。
 札幌はこの好例といってよい。老舗五番館や名門丸井今井を破綻に追い込んだ挙句に、今そのご当人たち自身が逃げ出そうとしている。実際に、五番館を飲み込んだ西武札幌店は昨年既に撤退してしまった。現在、栄耀栄華を誇る大丸だって先行きは分かったものではない。ただ札幌はまだ大都市である。そして誰もいなくなったということにはならないのかもしれない。だが問題は県庁所在地等の中核都市である。消費文化の担い手として諸手を挙げて誘致した百貨店が居なくなってみれば、そこは”元”の文化果つるところである。否、実際には地場の百貨店を潰してしまったのであるから、文化度は”元”よりさらに後退してしまうこととなる。
 本欄で私はこうした大型店の在り様を何度となく批判して来た。それは彼らの節度のなさがあまりにも目にあまるからである。
 唐突ながらそこで思い起こされるのは(ピーター・F・)ドラッカーの考えである。ドラッカーは「産業政策の改革は大企業がリードせよ」という。ドラッカーがかくいうのは、政府による規制を予め回避することを念頭に置いているからである。そのため彼は2つの自主的行動を提言する。それは第一に、現時点において、基本原則があいまい、あるいは不適切な分野における産業政策の策定、第二に、企業としての秩序を維持すべき分野における精力的な自主規制というものである。
 わが国におけるこれまでの大手百貨店の狼藉とまごう行為は、今後必ず大店法の再強化に繋がることとなるはずである。特に上記の第二について、リーダーとして業界秩序の維持に責任を持つべき大型店がその責任を忘れて、自らの利益の獲得ばかりに走った。その結果、地場百貨店や小売店を壊滅させ、それだけならまだしも、返す刀で自らの腹切りまで演じることとなったのである。文化産業の担い手であるはずが、地場の伝統的文化を潰し、自ら持ち込んだ文化を潰してしまうのだから、こんな喜(悲?)劇はない。
 ドラッカーの目には、秩序の維持を常に心がけなければならない大企業が、自らの利益確保にのみ走れば、秩序が破壊され規制を招いてしまうことがよく見えていた。リーマン・ショックのあと、わが国産業秩序の担い手であるべきはずの経団連会長会社が率先して派遣切りを行ったことが強く非難された。産業秩序の維持まで思いが及ばないのであれば、軽々に経団連会長の重職など引き受けるべきではない。経営者のモラルの問題である。
 現在のわが国は、産も学も政も官も国民もみんな小義にばかり走って、大義を忘れている。だから世の中がうまく回らない。
 大型店の問題も、そごうに代表されるような多店舗展開を機軸とした全国制覇策などは愚の骨頂であった。小義にばかり目が行くから大義を見失う。ここでの大義は共存共栄である。地方のどの都市もほぼ例外なく、大型店に席捲されたところはモノカルチャー一色に染められ、ことごとく個性を失ってしまった。”ちびた”東京や大阪が全国に蔓延しているということだ。
 買い物は本来楽しいはずのものである。買い物の楽しさが、みんなが集まる街をつくる。そうした楽しみを奪ってしまうから、街づくりが崩壊する。崩壊した街からは若者は逃げ出す。若者が逃げ出すから商圏がますます狭まくなってしまう。ために、地場商店のみならず大型店自らも当然のこと影響を受けることとなる。皮肉なしっぺ返しである。
 翻って私は、大手百貨店(含む大手スーパー)は地方への多店舗展開を図るべきではなかったと思っている。文化の伝播役に徹するのであれば、自ら地方に店舗を構える必要はなかった。地元の百貨店や小売店の既存資源を生かす方法はいくらでもある。提携、ノウハウ指導、共同商品開発等々、十指に余る。そうした形で地場資本と共存共栄の関係を築いていれば、地元商店街が今日ほど疲弊することはなかっただろうし、短期的な逸失利益は生じたかもしれないが、何より大型店自身がこれほど傷つくことはなかったのであろう。それもこれも小義に目がくらみ、大義を見失ったからである。
 今後の地方再生には色々なことが考えられなければならないが、その第一は何といっても大店法の大胆な再強化である。ドラッカーがいうように、大型店が早く大義に気づき、正しい道を歩んでさえいれば、国家がそれを規制することはなかった。だが道を踏み外したのだから致し方ない。ドラッカーにいわせれば、「望ましくはないが、自業自得のなせる業」というであろう。
 リーマン・ショックに端を発する世界金融危機において、問われたのは業界内の自浄作用である。自らの手による秩序維持ということである。オバマ政権はこれからウォール街との対決姿勢をますます強めることとなろうが、大義を見失った業界には当然のことながら鉄槌が下されなければならない。要は、経済活動の真の目的は如何にということなのである。ドラッカーは、「企業の目的は、利益獲得そのものではない」という。「企業はそれぞれそもそもの活動目的を持っており、その達成目指して活動することこそがその企業が生存を許される唯一の意義である」とするのだ。
 大手百貨店の店舗閉鎖問題を論じているうちに、少々的が外れたかもしれない。だが苦しい今だからこそ、安易に政府に頼ったり、僥倖を望んだりするのではなく、われわれの企業活動は何を目的としているのかという原点に帰ることこそ、局面打開の早道に思われてならないのである。