鳩山家の「子供手当」考から派生して

 鳩山首相に続いて、邦夫さんも同額母親から資金提供を受けていたことが発覚したということだ。マスコミに登場しては兄の批判を繰り返す姿に違和感を感じていたが、これですっきりした。自民党も身内に同様のケースがあるのだとすれば、首相への追求の鉾先も鈍らざるをえない。誰かが仕組んだとすれば、これは禁じ手に近いが究極の妙手である。感心し切りである。
 今回の鳩山問題は贈与税を支払って済む問題であるのだとすれば、もうそれで幕引きにして欲しい。鳩山さん個人がどうこう言う以前に、もしこれで鳩山政権が瓦解すれば、自民党時代を通じて4人の首班が1年もたないこととなる。ようよう実現した政権交替である。国民みんなでもう少し大事にしてよいのではないか。細川政権もカネの躓きで8ヶ月で頓挫した。その轍を踏ませてはならないと思うのである。
 月1500万円で年間1億8000万円という金額は、場合によってはサラリーマンの生涯所得に匹敵するものである。その金額の大きさから言っても、決して看過してならないことであろう。また、首相が言うとおり事実関係を知らなかったのであるとすれば、一国の宰相としてマネージメント能力に問題のあることも間違いない。
 この場合無論税法違反は問題である。だが政治資金規正法に焦点を当てれば、1994年の改正法は、条文に書かれている「政治資金は国民の浄財云々」というお題目とは別に、そもそも政治家自身が政治にカネがかかりすぎることに音を上げて改正を図ったものではなかったのか? 政党助成金制度は、個人的に不透明な資金集めに依存しなくて済むように、血税を注ぎ込むこととしたのではないのか? いずれにしても、政治に無用なカネをかけないで済ませることがその大前提である。
 しかしながら小沢ケース、鳩山ケースを始めとする政治とカネの問題がひきも切らないのは、未だ政治にカネがかかりすぎるからということであろう。要するに問題の本質は、依然として政治にカネがかかりすぎることであるわけだ。この問題が抜本的に解決されない限り、些細な形式犯で政権が引っくり返る愚が続くこととなる。
 政治になぜカネがかかるのか? それは自らの選挙対策と、党内覇権対策が大半であろう。これは本来的な政治資金でもなんでもない。自らの「保身」資金である。肝心の政策立案に割かれる資金は相当程度に少ないはずである。そうした構造を前提とすれば、議員歳費(秘書人件費等を含む)や政党助成金血税を費やすことは是非再考されなければならない。そしてここではそのうえで、議員一人当たりが使うことの出来る政治資金について上限を設けることを提案したい。
 これまでの政治資金規正は「入り」のチェックが主体であった。これに対してここでは、「出る」に焦点を当てるということである。現行の政治資金なるものは、国民生活に直結する政策立案に当てられる費用は極めて少ないというのが実感である。したがって「出る」に着目し、政策立案に焦点を絞れば、必要な政治資金は格段に少なくて済むこととなる。
 政治家先生が選挙区へ毎週末帰るのは明らかに選挙対策である。政策立案とはほとんど関係ない。この夏の選挙で落選した先生の中には、毎週ソフトボールをするために帰っていた方もおられた。また甚だしいケースとしては、不倫旅行に議員パスを使った先生もおられた。こうした広義の「金帰月来」のための費用は明らかに税金である。ソフトボールや不倫旅行をまさか政治とは言うまい。
 民主党がこの先支持をえ続けるための、一里塚はまず議員先生方が率先して身を削ることである。先般も書いたが、国家財政の半分以上を借金に依存しなければならないのだとすれば、議員先生は歳費を半分にするべきである。それでも一人頭3000万円以上のものが残る。そのうえで、「一人が使うことの出来る政治資金」に規制をかける。このことこそが問題解決の秘策であると考えるのである。
 小沢支配の本質が相も変らぬ金権政治であるとすれば、こうすることによって、民主党議員の多くが恐れる小沢支配構造の一端が崩れる。小沢さんもみんなとイーブンのカネしか使えないのであれば、あとは政策立案で勝負するしかない。そうした結果小沢支配が続いたとしても、それは民主党内の権力闘争とは関係なく、国民にはウエルカムであるはずだ。
 今回の選挙で分かったことは議員先生が個人的に地元に貢献しようがしまいが、そんなことは当落を制する本質ではないということだ。それより属する政党が、如何に国民全体に望ましい政策を実行するかということこそが問われる。二大政党制の妙味というものであろう。明らかに潮の流れは変った。国会議員は今こそ原点に立ち返って、全体の福祉向上にこそ貢献すべきである。そうすれば自ずから結果は付いてくる。国民はそこまで馬鹿ではない。
 鳩山問題に戻る。あるテレビキャスターがこの問題に触れて、「おカネ持ちじゃなければ出来ないような政治では困る」とのコメントを語っていた。こうしたキャスター氏のコメントも「入る」に囚われた発言である。「出る」に制限をかければ、使えるおカネはイーブンであるわけだから、如何に鳩山さんがおカネを持っていても関係ない。政権交代明治維新以来の大業と捉えるのであれば、荒唐無稽であっても何でも、それくらい大胆な発想の転換があってよいのではなかろうか? 少なくとも、事業仕分けのパフォーマンスで悦にいっている場合ではないのである。